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刻の流狼第一部 紫翠大陸編

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「そうか、判った。済まないが、成る可く早く支度を済ませるから、暫く待っていてくれないか」
「畏まりました」


 恒河沙が須臾を連れ戻し、三人が帆南の待つ宿の外に出るには一時間も掛からなかった。
 その後すぐに帆南に従って擣巓へと向かった。
 擣巓までの道程を、帆南が型通りの挨拶を皮切りに、擣巓の概要を事細かく説明してくれたお陰で、恒河沙が退屈する事はなかった。
 但し、予めソルティーが話を付け、二人に聖聚理教と襄還宗の対立は伏せられていた。
 聖聚理教の教えは、言うなれば個人主義とも言える。
 一度聖聚理教の信徒となれば、ありとあらゆる欲を捨て、信仰神に総てを委ねなくてはならない。信徒総てが一団となって行うのではなく、一人一人が教えをどう体現出来るかを、まるで競わすようにしているのだ。
 信徒となった瞬間から、彼等は死ぬまで一個人として己と向き合いながら神の教えを行う。言われた事をただ行うだけでは、何の心の成長ももたらされない。
 厳しい戒律の中では異性との交わりも禁止されているのを聞いて、須臾が真っ青になったのは言うまでもなく、毎日の食生活すら決められた分で賄うと聞かされた恒河沙も、帆南の話の途中で目眩を起こしそうになった。
「ハーパー様のお連れ様であっても、聖聚理教の神殿での行動はお慎み下さるようお願いいたします」
 口々に不平不満を口にする二人に帆南はきっぱりと言い切り、二人はそれじゃあ街に泊まると言い出したが、ソルティーがそれを却下した。
「お前達を街に居させると、三日で国外退去させられそうだ」
 街の生活と神殿での生活とでは、どちらが自分達に危険が及ばないか、今の状況では後者の方が遙かに安全に思える。
 幕巌から聞き及んだ事実と帆南の話から、今の擣巓がどれ程劣悪な環境であるかを聞かされた結果だった。



 四人が璃潤と擣巓の国境に沿って創られた巨大な人口の壁を前にし、恒河沙が昨日買って貰ったお菓子を残しておけば良かったと後悔していた頃、鉄の大扉の前に二人の男性の姿が見えた。
 一人は帆南とは若干違う僧服を纏い、歳の頃は二十代後半か三十代前半。涼しげな容貌は冷たささえ感じた。ただ、彼の特徴的な長い耳の形から、彼が亜人種である事も判り、彼が見かけ通りの年齢では無いことも判断できた。
 もう一人は四十近い風貌とがっしりした体格の人間の男で、僧服には身を包まず、ありきたりのシャツとズボンだけの姿だった。
「ああ、いらっしゃいました」
 恒河沙と須臾の愚痴に心底疲れた帆南は、男達の姿を見付けて嬉しそうに呟く。
「……ソルティー、ハーパー居ない」
「居るよ」
 またもや期待していたハーパーの姿が見えない事に落胆する恒河沙に、ソルティーは少し笑ってそう応えた。
 恒河沙がソルティーの言葉で空を見上げ捜し回っている間に、四人は見知らぬ男性の前に辿り着いた。
「端雅梛(はがな)様、ハーパー様、只今戻りました」
「ご苦労だった帆南。お前は先に帰り、大司祭様にご報告を済ませるように」
「はい。ではお先に失礼をさせて戴きます」
 帆南は僧服を着た端雅梛と呼ぶ男に慣例的な礼をし、向き直ってソルティーにも同じ礼をした後、大扉の横に在る小さな扉から擣巓の中に消えた。
 端雅梛は帆南が消えるのを見届け、隣の男と一度目配せをしソルティー達に近付き一礼をする。
「初めまして、私聖聚理教の司祭を努めます端雅梛と申します。暫くの間、皆様の世話役を仰せつかりましたので、成る可く私の言葉にお従い願いますよう。特に、其処の傭兵殿には幾重にもお願いいたします」
「なっ……」
 端から自分達を見下してきた男の言葉に恒河沙は食いつこうとしたが、後ろから須臾に肩を掴まれ、したくもない我慢を強いらされた。
「では、詳しい話は中で」
 神殿に身を投じる者の中には、俗世を嫌って入信する者も多い。間違いなく端雅梛はその口なのだろう。
 一瞬でも此処に居たくないと言いたげな彼はさっさときびすを返すと、後ろを気にする事もなく直ぐに帆南が消えた扉に向かったが、開けられたのは大扉の方だった。
 鉄の錆び付いた軋みと共に大扉はゆっくりと口を開け、五人の前に擣巓への道を作り始めた。


 先刻まで晴れ渡っていた空に、突如、暗い雲が並び始める。
 ソルティー達が擣巓に入国し、大扉がまた音を立てて閉められた時、紫翠大陸に久しぶりの雨期が訪れた。


 擣巓の大扉の中は、簡素な家が建ち並ぶ町が在った。
 雨が降り出した所為もあり、住人の姿は疎らだったが、それ以外の人の姿は道々に溢れていた。
 差別、貧困、戦の犠牲者と、ここへ流れ着いた形はそれぞれだが、弱者である事に違いはない。その弱者の救済が、現在の擣巓を悩ませている最も大きな問題にもなっていた。
 北部一帯が肥沃な大地を有していると言っても、際限なく人が増え続ければ何時かは底を見てしまう。さりとて、心の救済を求める者を受け入れずに居る事は、彼等が掲げるオレアディスの言葉に反する事でもあった。
 自分自身を守れない弱者と共に滅びるか、弱者に食い潰される資源を守るか、この問題に置いても擣巓の国政は大きく揺れ動こうとしている。

 端雅梛は一端雨期が過ぎるまでこの町ので滞在を聞いたが、それをソルティーは断り先に進む事を頼んだ。
 雨期自体はそれ程長くは続かない。三日降り続ければ良い方だろうが、その三日をこの町で過ごし、恒河沙と須臾に襄還宗の話を耳にされるのは避けたかった。
 端雅梛は帆南と違い、ソルティーが此処に来た理由を知っているのか 、彼から何かを言い出す事はなかった。
 ただ彼の様子は、ソルティーと須臾にはかなり緊張している様に見えた。
 襄還宗がまだ事を起こす気ではなくとも、国境付近には襄還宗の信徒が多く、端雅梛は身の危険を感じながらソルティーを迎えに来たのだろう。
 暫く話す事が雰囲気的に拒まれていた恒河沙が、やっと気兼ねなく話すことが出来たのは町を通り抜けてからだった。
「なぁ、ハーパーは?」
 ずっと捜してはいるのだが、この雨の中でハーパーを見つけだす事は自分には難しいと思って、最後には諦めて聞くことにした。
「……だから、あれがハーパー」
 ソルティーが指さしたのは端雅梛の横を歩く、自分達と同様に雨に濡れそぼった男だ。
「またじょーだん言う……」
「本当だよ」
 信じられない恒河沙を余所に、須臾はその珍しい現象に言葉を踊らせる。
「写し見?」
「似ているが違うな。彼等は人の様に術は使わないから」
「へぇ、理無しで術が使えるのなんて羨ましいね。写し身なんて、術者の中でも高等技術らしいじゃない」
「……なに言ってんのか、ぜんぜんわかんねぇ」
 ハーパーの姿に感嘆する須臾を余所に、恒河沙は一人頭を捻る。
 写し見だとか言われても、本当に彼がハーパーかどうか自分には理解出来ない。もう少し自分が判る程度での話をして欲しいのだ。
 一人除け者にされた気分でハーパーらしい人物を眺める恒河沙の頭に、ソルティーの手が軽く乗せられ、見上げると笑みが返ってくる。
「あれは幻みたいな物だ。水鏡は判るだろ?」
「うん、泉とかで自分が見れるやつだろ?」