刻の流狼第一部 紫翠大陸編
episode.4
精霊信仰。この世界では誰もがこの信仰に身を委ね、四大精霊神と三霊王のいずれかを信仰の対象とし、日々の営みの礎としていた。
人種や民族性、個人の生き方で信仰対象は大きく隔たりは有るが、紫翠大陸で最も多くの人が信仰しているのは、水の精霊神オレアディスである。守りや心の安寧を主とするその教えは、人々の疲れた心に癒しを与えていた。
そして紫翠大陸最大のオレアディス信仰は、擣巓と呼ばれる国そのものが担っていた。
* * * *
紆余曲折は有ったが、ソルティー達が森を使用した事によって、擣巓への道程は確実に短縮されていた。
しかし森を抜けるまでのソルティーの焦りは、恒河沙にさえも伝わる程だった。が、何故それ程までに彼が急いでいるのかを知らされる事は無かった。
唐轍の回帰間がずれる恐れは、今の所無い。
一定とは言い難いが、回帰間のずれは何年かに一度訪れるだけで、ずれの訪れは唐突だが、続けて起こる事はまず考えられない。いや、それよりも須臾達からすれば、急いで唐轍に行こうと考える方がおかしい。
回帰間まで今のままの歩みでは、次の回帰間より一月半も早く唐轍に着くだろう。
しかし諸々の条約で、回帰間の半月以前に唐轍に入国は出来ない筈だ。ソルティーもそれを知らない筈がない。
「何を考えているのか……。まっ、僕には関係ないか」
須臾も恒河沙とはまた別の意味で考える事は嫌いだ。
自分の雇い主が何を考えていようと、使われる立場とすれば考えるだけ無駄なのだ。仲間では決して有り得ない、金銭を間にしか繋がりがないソルティーと自分達の責任は総て彼だけに有り、契約が成り立っている間は、なるようにしかならないのだから。
それは須臾の理想でもあったが……。
河南の森を抜け、擣巓の南に在る璃潤に三人が入国したのは、奔霞を出てから早くも三月近く経ってからだ。
璃潤を通り過ぎるのに大凡十二日、それを差し引いた回帰間までの一月半を、彼等は璃潤もしくは擣巓で過ごさなくてはならない予定となる。
璃潤の最北東、擣巓との国境近くに煉華(れんげ)の街が在り、此処から目と鼻の先に擣巓を覆い隠す外壁が存在する。
擣巓の影響か、僧服に身を包んだ者が多く見られ、須臾の予想通り裏の顔(色町)は影も形もなかった。
その煉華でも一番擣巓に近い宿屋をソルティーは借りた。
「此処で待っていればハーパーがその内来るだろう」
遅い昼食を宿の一階でしながらソルティーが切り出し、二人はどうしてそんな事が判るのかと聞いたが、
「それが判るから説明のしようがない」
としか言わなかった。
相手が竜族だからか、それとも何かを合図するのか。
曖昧な事をソルティーが言うのは、自分達に知られたくないからだと須臾は考える。
この三月で何となくだが、ソルティーの話す事の微妙さを知った。
ハーパーの事にしろ、確かに彼が居ては目立つ。だがそれならば奔霞でこそ彼の存在を隠すべきであり、同時に何故人目についてはならないかを疑問に思う。
何も考えていない恒河沙がハーパーの事を聞いても、体良くはぐらかしていた。隠し事が多いのは疚しい事が有るからではなく、彼の背負う物が多いからだと思うのは、幕巌が彼を信用していたからだ。
ただ、背負う物を知られたくないから言葉を濁すしか無いと納得出来はしても、これ以上続くのは、やはり危ないのではないかとも思う。
「それで? ハーパーは何時頃此処に来るのかな?」
「さあ、其処までは。多分二三日もすれば来ると思うが」
――ハーパーが無事ならばの話だが……。
璃潤に入ってから、竜族が現れた話は聞いていない。ハーパーが巧く擣巓に入ったと思って良いだろう。
しかし、此処で三日待ってハーパーが姿を見せなければ、彼に何か有ったと考えるしかない。
考え込むソルティーを視界の端に写し、恒河沙は山盛りの焼き飯を口に運ぶ。
――あっ、まただ。
恒河沙もソルティーの事で気付いた事がある。彼が考え事をすると、左耳に付けている飾りを弄る事だ。
普段は髪に隠れて見える事はないが、偶に風が吹くとそれが微かに見える。金色のそれは綺麗だったが、五つも男が付ける物ではないと思う。だから、いつかそう言ってやろうと考え、何時も言いそびれていた。
考えてる間に恒河沙は食べ終わり、お腹の具合を確かめどうしようか迷う。
――えんりょしなくちゃなんないのかな……。
既に二人は食べ終わっているし、須臾は店の女性を口説き始めて話もできない。
「恒河沙はもう良いのか?」
「……かんがえちゅう」
もう一杯は食べられそうだと、皿を見つめながら真剣に悩む。
「俺は少し買い物をしてくるから、食べ終わったら払いを済ませておいてくれ」
「なに買うんだ?」
「食料は心配なさそうだが、火種と芯が切れた。それと、森で擦り切れた服も調達したい」
「俺も行っていい?」
「ん? ああ、構わないが……」
一度須臾に視線を投げたが、彼は女性に話をしながら簡単に手を振るだけだった。
「いこ」
「それじゃ須臾、金は此処に置いておく」
口説かれて満更でもない女性と向き合ったまま、須臾はもう一度手を振る。
「ほっとけよ、須臾は女がいると話聞かないから」
「その様だな」
「だからさっさと買い物いこ」
床に放り出していた剣を担ぎ、恒河沙は無理矢理ソルティーを外に連れ出した。
依然雨期は訪れず、空は晴れ渡り風も穏やかだった。
二人は街の人に道具屋と服屋の場所を聞き、まず最初に火種などの補充をする事にした。
魔法と呪術が発達した世界に火薬は存在しない。ほぼ総ての日用品が理の力で成り立ち、火種は火の理を封じた封呪石を用いる。予め呪紋を刻まれた石に簡単な言葉を掛ければ、魔法を使えない者にでも扱う事が出来たし、過度の使用をする前に力を入れ直せば何度でも繰り返し使えた。
「けっこう早くきれたんじゃないか?」
「ああ、森で消耗したからな。補充し忘れた事もあるが」
ソルティーの持っていた火種の殆どが、森での使用に耐えきれず砕け散った。
道具屋を一通り見渡した後、ソルティーは必要最低限の火種と芯、それと恒河沙の要望で傷薬を購入し其処を出た。
服屋の場所は街の表通りになり、道具屋からは多少離れた処に在ったが、まさか店に着くまでに、これ程疲れるとはソルティーも考えていなかった。
恒河沙は目に付いた菓子屋や食料店の側まで来ると、無意識の内に中に入ろうとする。彼と買い物をするのはこれが初めてなソルティーは、服屋に着くまでに紙袋一杯のお菓子を買う羽目に、いつの間にかなっていた。
普段は自分一人で行くか、須臾に頼んで済ますかだったが、その場合お釣りが彼の元に返る事はない。
お菓子の入った袋を片手に、ほくほく顔の恒河沙を連れて店に辿り着いたのは、多分本来掛けられる倍の時間を経過させてからだ。
「うひゃ〜〜、すっげぇー」
広い店構えを眺め、恒河沙が感嘆の悲鳴を上げる。
客を呼び寄せるが如く開かれた入り口を潜ると、店内は色の洪水が起きている様で、綺麗を通り越しけばけばしい。
「いらっしゃいませーー」
作品名:刻の流狼第一部 紫翠大陸編 作家名:へぐい