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刻の流狼第一部 紫翠大陸編

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――やはり、無理にでも置いてくれば良かった。
 ハーパーには随分手狭だった入り口は、元より一回り大きく形を変えた。確認せずともソルティーが支払わなければならないだろう。
「あんた初顔だな」
 カウンター越しに掛けられた声に、入り口から視線を移しその男を見る。
 年季の入った職業笑顔を浮かべる男は、歳は五十を過ぎた位だ。
「ああ、初めてだ。……悪いな、入り口を壊した」
「勿論後で職人呼んで、きっちり請求書を渡すさ。それまで帰るなよ。――で、何にする? 何でもと言いたいが、生憎此処じゃあ酒と摘みしか用意できねぇがな」
 こんな場所柄からか、壊されたことに笑みさえ浮かべる男に、ソルティーは内心胸を撫で下ろした。同時にハーパーを見ても他の者達の様に取り乱さなかった事や、人当たりの良さそうな笑顔とは裏腹な男の気配にも安心した。
「そうだな、俺は何でも良いからこの店で一番きつい酒を、此方の相棒には純水を頼もうか」
「はぁ〜〜純水かぁ? ――そりゃぁ剛気だねぇ。流石竜族様だ」
 会話に加わらない無言のハーパーを見上げ、男は言葉を感嘆の息をついたが、直ぐに含みのある口調を変えた。
「しかし時期が悪かったな。最近雨期がずれて今年はまだ……」
「知っている。しかし、彼はそれしか受け付けない体質だ。その厄介な体質の所為で、何処にしても純水が手に入り難い事も、そう多用される物じゃない事も、嫌でも判ってる。――ついでに今と同じ台詞を何度も聞かされてきたが、最後には何時もどこからか出てきたな」
「………」
「どこかに残っている筈だろう? それを此処にちょっと出してくれれば良いだけじゃないか。そう言う事が出来ない店だって言うなら話は別だが」
 男の言葉を遮り、挑発めいた言葉で用意しろと含み加えれば、男は一瞬だけ不愉快そうな顔になった。
「後から値段にけちは無しにして貰いてぇもんだ」
「それが正規の値に収まるなら、こちらに文句はない。まさか、十倍の値を付けるつもりか?」
「いや、六倍が限度だな」
「なら……これで良いか」
 鎧の内側から革袋を取り出し、ソルティーは十枚の金貨を並べ、それを見て男は思わず口笛を鳴らした。
 たった一杯の飲み物にこれだけの値を付けるのは、この世界で唯一不足している物が水だと言う事だ。
 ただそれは、空から降り注ぐ雨だけを指し示す。民の生活に必要な水は、大地から湧き出る泉や川、他には植物などから抽出する蒸留水で事足りる。それでもなお純水と呼ばれる無味無臭の液体に高値が付くのは、純水がこの世界を構築するに最も必要な理の力で形成されているからである。
 理の力無くして世界の維持は不可能。この世界に生きる者達にとっては、最も重要であり、同時に最も意識しない事実だ。よって純水を求める者は術者関係の限られた者達で、次の雨期がくるまでに無くなる事は希だった。
 ただ、竜族にだけはその常識は通用しない。彼等は普段、大気中から水分を補給するが、大気の淀んだ人の世界ではそれもままならず、純水に頼らざるおえないのが実状である。
 金貨一枚で十日は楽に暮らせる世の中で、わざわざ無味無臭の飲み物一つに大金が動く事は、あまりに世間の認識を馬鹿にしていると言えないではないが。
「色は付けた」
「………」
「足りないか?」
「いっ、いや、充分だ。待ってな、直ぐに用意させる」
 男はそう言って仕事にあぶれていた店員の一人に言いつけ、即刻奥の扉に向かわせた。
「時間はそうかからねぇ筈だ」
 自信を持って男は言い切り、自分はソルティーに頼まれた方の飲み物を用意し始めた。

 前に出された蒸留酒を口に運びながら、ソルティーは傍らのハーパーに言葉を投げ掛けた。
『気分は悪くならないか?』
 店中に広がる煙草の煙と人いきれは、竜族には劣悪な環境でしかなく、ハーパーの表情はまさしくそれを嫌悪している風に曇っていた。
 とは言え、竜族の皮膚は硬く、人のような細やかな表情を浮かべられはしない。
 それが判ったと言う事は、彼等はそれだけ長い付き合いだという事だろう。
『慣れはせぬが、慣れぬ程ではない』
 ハーパーの返事は、独特な言い回しだ。
 多少の含みはあるものの、大したことでは無さそうだと判断して、ソルティーは顔を店の男の方へと戻した。
「そういやぁ、あんた等何しに此処に来た?」
 暇を持て余しているのか、それとも二人に感心があってか、男は他の客の相手もせずに二人の前を陣取ったままだった。
「判っていてそう聞くなら、あんたもなかなかに嫌な男だ」
 そう言われて初めて男は本当の笑いを表に出した。
 どちらが先に切り出すか、そう言う駆け引きを男は楽しんでいたが、結局男は己の興味心には勝てなかった。
「何が知りたい?」
 男の顔は既に人当たりの良い酒場の主人ではなく、情報を売り物とする奔霞独特の裏の顔だった。
 自信を垣間見せる男の言葉に、ソルティーは商談の成立に内心胸を撫で下ろす。単に情報が欲しかった訳じゃない。成る可く良い意味でこちらに興味を持って貰わなくては、こういった世界では適当にあしらわれる可能性を否定できない。
 ハーパーを気遣いながらも連れてきたのは、ある意味駆け引きの為の手の一つと言える行為だ。
「この一年、あんたが興味を持った話が知りたい。話一つにつき銀貨五十、此方が知りたかった話なら金貨一枚。相場だろ」
「ああ、構わねえ」
「但し、此方もそれなりに“噂”は集めてきているつもりだ。足元を見ようとするなら、その時点でこの話は無かった事にする」
 金銭で取り引きされる話は大きく分けて二つ。嘘か事実。嘘を事実に聞かせるのも、事実を嘘と思わせるのも、それを扱う者に委ねられる。その為に、相手を試す事は必ず必要となり、ソルティーは竜族と純水を使って見極めをし、男はそれに応えたのだ。
「俺もこれで食いつないできた端くれだ、あんたの言う事は理解しているさ。そうだなぁ、順を追って古い事からでも……」
 過去を手繰り寄せるような素振りで、男は丁度一年前の事から話し始めた。
 そしてその頃になって漸くハーパーの前に純水が運ばれてきた。



 男が語った内容は、数的にはそれ程多くはなかったが、国家間の敷居を取り除いた“真実に限りなく近い噂話”から、極身近な事柄まで多岐に渡っていた。その一つ一つにソルティーは他の店員が鼻白む程の料金を支払っていた。但し、自分の興味がそれと知れる置き方ではなく、総てを纏めた代金として。
 人は意識しないようにすればするほど、心の動揺が微妙な動きとして出てしまう。男はソルティーの口元や指先の僅かな動きを、視界の端に捉え続けていた。けれど何も変化はない。
 余程の訓練を積まなければ、ここまで見事に普通を演じる事は無理だと知っているからこそ、男の興味は次第に竜族を連れた人間から、この人間その物へと変化していった。
 そんな自分自身の変化に気付いた男は、これで最後だと決めていた噂話を終えた後、一息入れてからまた口を開いた。
「……最後にだが、これは俺自身が仕入れた話じゃねぇから何とも言えねぇが、あくまでも噂として耳に納めてくれるか」
 ソルティーが頷くと、男は顔を近づけ出来るだけ声を潜めて耳打ちする。
「戦が始まる」