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刻の流狼第一部 紫翠大陸編

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「おかしいですぅ〜〜。変ですぅ〜〜。お犬さんはぁ〜お犬さんじゃ無いのにぃ〜でもぉお犬さんなのですぅ〜〜」
 全くこれっぽっちも理解できない言葉を並べ、砂綬は唸るばかりだった。
「どういう事だ?」
「俺に聞くなよ」
「うにゅう〜〜」
 砂綬の頭の中は混乱していた。
 人間がなんの弊害もなく森に受け入れられる事が、まず考えられない。少なくとも河南での前例は皆無だ。
 口では何と言っても、この人間が苦しむ様を期待していた。いや、それ以外を考えられはしなかった。
 にも関わらず、人間で、しかも大人のソルティーが、全く森に影響を受けなかった。
 彼が恒河沙のような心だったからか?――いいや違う。
 虚実の入り交じった人間の心の虚を嫌う森が、この男の場合だけその“虚”その物を認めてしまったのだ。砂綬は審査の際、森と意志を一つにするからこの事だけは判った。
 認めたくはない。それでは契約住人としての立場がないではないか。
「はぁうぅ〜〜〜〜〜〜〜〜」
 だが審査は終わった。
 この男は、契約住人の自分よりも森の入る資格を有しているとの結果だけを残して。
「仕方ないですねぇ〜〜。河南はぁ〜三人をぉ〜認めましたぁ〜〜」
 納得できないが、決めるのは森だ。
 砂綬はそれに従って生きる者でしかない。
「よかったな、ソルティー」
「ん……、ああ、そうだな」
 砂綬の言動や困惑は気にはなるが、追求できる様子ではない。
「何が良かっただよ、何で僕だけがこんな目に遭わなきゃなんない訳? 納得できないよ」
「須臾はぁ〜〜自業自得なんですけどねぇ〜〜」
「砂綬〜後で泣かしてやるからね〜」
「そうすればぁ〜〜僕はぁ〜須臾を〜食べちゃいますぅ〜〜」
「……前言撤回します。御免なさい」
 思うように動かない体を恒河沙の後ろまで移動させ、須臾は砂綬の光り輝く鋭い視線から必死で遠のく。自分が本当に砂綬に何かしたら、必ず自分を食べそうだと本能で感じながら。



 須臾がなんとか立ち上がるまでに小一時間程掛かったが、三人は漸く入口にまで来た。
 そこで砂綬が自分の荷物の中から、使い込まれた長めの縄を取り出した。
「ではぁ〜〜、これを〜〜皆さん〜持って下さいぃ〜〜」
 砂綬は縄の一番端を持ったまま、一人一人にその縄の途中を握らせていった。
「僕がぁ〜先頭にぃ歩きますけどぉ〜〜。恒河沙はぁ〜最後尾でぇ〜腰にぃ縄をぉ括り付けてぇ〜下さいねぇ〜〜」
「やっぱりぃ〜〜」
 そう言われる理由に思い当たる節が有るらしく、恒河沙も砂綬の命令に逆らわなかった。
「他のぉ〜お二人はぁ〜手でぇ掴んでいて下さいねぇ〜〜。離すとぉ〜迷子になってぇ〜死んじゃいますからぁ〜〜」
「ソルティー、お願いだから先を歩いて」
 本気で砂綬を恐れてしまった須臾に懇願され、ソルティーは仕方なく砂綬の後に歩く事となった。
 何とも情けない姿に、ますます自分達の主従関係が、通常のそれから遠離っていく。そんな予感がひしひしと浮かんできた。
 いやそれよりも、砂綬が縄の端をズボンのベルトに括って、それを掴んでいる自分達の姿が、端から見れば間違いなく滑稽でしかない事実に、軽い目眩さえも感じていた。
「さてぇ〜行きますかぁ〜〜!」
 砂綬が片手を高らかに掲げると同時に、一行は森に向かって歩き出した。



 森の中は外から見るよりも遙かに明るく、木漏れ日が乱反射する美しい世界だった。
 ただその中を歩く四人の姿は、誰が見たとしても間抜けとしか言いようがない。
 砂綬は直ぐ後ろの“お犬さん”に緊張しているし、須臾は砂綬の気が変わらないかを心配して成る可く後ろに下がって警戒している。恒河沙は恒河沙で、縄に引きずられる様にして周りの景色に見とれていた。
 ソルティーだけが周りに関心も示さず、黙々と歩き続ける。
「皆さん〜〜、ちゃんと掴んでますかぁ〜〜?」
 前を向いたまま砂綬が掛け声を掛ける。
「持ってるよー」
「だれだよ、こんなにきつくしばったのは……。はずしたくてもはずせねぇ!」
 後ろの二人の返事は早かったが、ソルティーだけは自分の掴んでいる縄を見つめ、これを持つ意味を考え込んでいた。
「お犬さんはぁ〜どうしたんですかぁ〜〜?」
「あ……持ってる。質問だが、これを離すとどうなる?」
「死にますぅ〜〜」
 簡単明瞭な答えの後、砂綬は一端立ち止まった。
「仕様がないですねぇ〜〜。お犬さんはぁ〜初めてだからぁ〜説明しますけどぉ〜〜」
 砂綬は足下に転がっていた石を拾い、木々の間に投げ飛ばした。
「判りましたぁ〜〜?」
「……ああ、何となくだが」
「そう言う事ですぅ〜〜」
 納得して貰えたならと、また砂綬は歩き出す。
 砂綬の投げた石は木々の間をすり抜けた途端、ソルティーの視界から消えた。文字通り消え去ったのだ。
 見た目は同じ様な木々が並ぶだけだが、湾曲した空間が重なってそう見えるだけで、連鎖した空間の継ぎ目を越えると、全く違う空間に飛ばされるらしい。この方向感覚も無駄になるずれた空間を進むには、案内人とそれを繋ぐ物が必要不可欠なのだ。
「……空も同じか?」
 枝葉の間から見える空を見上げ、ソルティーは浮かんだ疑問を呟く。
「この空がぁ〜河南のぉ〜上にあるぅ〜空だとぉ〜良いですねぇ〜〜」
 上空でさえも迷いの道を免れる事はない。……と、砂綬は楽しそうに言う。
 たとえ飛ぶことが出来ても、遙か遠くの未開の地に出るかも知れない。いや、それよりも、上空に出るまでに空間の繋ぎ目が無いとも言い切れず、もしそうなら結局は森から出られないと言うことだ。何れにせよ飛ぶ事が出来ない三人には、上空に逃げ場があったとしても関係の無い事ではあるが。
 砂綬の言う通り、縄を離した瞬間に何処とも知れない空間に飛ばされ、誰にも見付けられる事無く、死を見つめながら朽ち果てる。そうなりたくはない三人は、無意識に縄を持つ手に力を入れた。
――森の脅威、か。
 知りたかったのは現象の根本だったが、森に護られる契約住人が喜んで種明かしはしないだろう。それに砂綬が知っているとも、断言は出来ない。
 砂綬の説明が簡単なのは、結果だけを知っているからに過ぎないからだ。
 今更ながら、いとも容易く死を強いる森の脅威に、ソルティーは内心唾を吐き出したくなる思いだった。



 森を進みながら、ソルティーは砂綬から様々な話を聞いた。
 必ず目を合わせようとはしないが、話かければ必ず答えは返してくれる。但し、森の管理者とその契約の事を外してだが。

 河南を抜けるまでの行程は、今の速度の維持で一月。
 森の中には杜牧(とぼく)・翆窯(すいよう)・畔双(はんそう)と呼ばれる三つの村が在り、砂綬の村は惣侘に一番近い杜牧と言う。
 同じ森に在ると言っても、それぞれ違う種族によって形成され、親交が深く有るわけではない。特に畔双は他の二つの村が行っている案内人を毛嫌いしているらしかった。
 抑も契約住人となる部族の大半が、外の世界での交わりを何らかの理由から断つべくして森へと移住した者達である。決して畔双だけが特別と言うわけではない。
 自給自足が成り立つ森の中だけの生活を好む者と、決して他者を排除する事だけを望まない者。