刻の流狼第一部 紫翠大陸編
道徳観念が皆無に等しい須臾でも、これに触れる事だけはしない。いや、出来ない。遙か昔は、異種族との交わりさえも禁忌とされていた世界だ、宗教上の戒律でなくても、人の心の中には禁忌に対する脅迫観念にも似た戒めが宿っていた。
「あの子を選ぶのは、余り誉められた事じゃないと思うけど?」
性的な禁忌は、近親、同性、そして成人前の者に対する性交が挙げられる。
「確かめたの?」
「いや、そういうのは野暮だろ?」
「野暮だよ。でも、ああいう処に立つ女の子達は、そういう事を考えても立たざるおえない子達だよ。選ぶ方の責任だよ」
役人の目の届く場所の色町では、娼館側もおいそれと未成人を立たせはしないだろう。だがあの少女がまだまだ大人になっていない事は確かで、おいそれと手を出して良いかどうかは、また別の問題だ。
可哀想だと偽善的な同情がしたいのならば、買ったふりをして金だけを渡す事も出来る。ある意味それを須臾は期待していたのだが、ソルティーの返事は呆れた話だった。
「確かに。……しかし、小柄な子が他に居なかったからな。選ぶ側の責任よりも、選ぶ権利を優先させてしまった。これからは気を付ける」
反省をする様子もない口ぶりに、流石に須臾も厳しい顔つきになった。
「ソルティーって、意外と歪んでるね。まさか、小柄なら誰でも良いなんて言わないよね?」
「どういう意味だ?」
意味が判らないと首を傾げる姿に、須臾は溜息を吐きながら言った。
「そのまんま、小柄で可愛ければ男の子でも良いなんて事」
この言葉もソルティーの予想外だった。
予想外すぎて何を言おうとしているのか直ぐには理解できず、少し考えて、それが多少恐い事を言われているのだ気が付いた。
「……まさか、それは……恒河沙の事か?」
自分の言葉に真剣に頷く須臾を見て、ソルティーは爆笑した。
痛みすら感じそうな腹筋に耐えきれずベッドに崩れ落ち、それでも笑いはなかなか止まらない。
「其処まで笑うかぁ? ――よく見てみなよ、彼奴って顔の造作は可愛いんだから」
どうやら須臾は本気でそう思っているらしく、まるで自分の事のように怒る始末だ。その並々ならぬ欲目に、更にソルティーは笑いを酷くさせた。
確かに恒河沙の世話を焼くのは苦にならない。むしろ今まで彼のような子供が近くにいなかっただけに、楽しいと言えるかも知れない。しかし、それとこれとは別問題だ。
子供じみた生意気さは見方を変えれば可愛いと言えなくはないが、彼の外見に何らかの気を引かれた事はない。いや、もっと重要な角度から言えば、ソルティーにそんな趣味はなかった。
「……ハァ…。いや……悪かった」
とは言うものの、腹筋の引きつりはまだ収まっていない。
「俺も流石に幾らなんでも、自分と同じモノが付いている奴は御免だ。それなら小柄でなくても、ちゃんとした女が良い」
「信用してもいい話?」
「信用して貰いたいな。俺だって道徳観は低いらしいが、雇い主としての節度は在る。俺は腕を買っただけで、体を買った訳じゃない。無理強いも趣味じゃないしな」
「……それなら良いけど。ソルティーの節度やらを信じてみますか」
本当に何処まで信用しているのか、甚だ疑問に感じる口調だった。
しかしそれ以上に、須臾に釘を刺されている気がする。恒河沙には干渉するなと。
恒河沙には何の気も起きないが、須臾の言葉は気に掛かる。
――色々、秘密が有るようだが、私が聞く立場ではなさそうだ。
あくまでも他人だ、関わりを深める者ではないだろう。
「それ位は信じて貰わないと、仕事は出来ないな」
ただの傭兵に手の内を曝す事が出来ないなら、ある程度までは彼等に併せるしかない。須臾が恒河沙に干渉するなと言うなら、それに従うのが自分の為にもなるとソルティーは結論を出した。
それから暫く二人とも何を話すでなく時間を過ごしていたが、窓から見える宿屋の向かいにある食堂が開くのを見付け、やっと須臾は腰を上げた。
「店も開いた事だし、朝食で恒河沙の機嫌でもとろうかな。ソルティーはどうする?」
「いや、俺は遠慮しておく。笑い疲れた」
「あっそ」
ソルティーの投げた銀貨を受け取り、須臾はさっさと部屋を後にした。
須臾の開けた窓から風が吹き込む。
ベッドに自分と同じに投げ捨てた二本の長剣の一本を掴み、鞘から剣身を引き出す。手入れの行き届いた其処に自分の姿を映しだし、うっすらと浮かび上がる呪紋を見つめた。
『“我が力、我が命”』
一般的に使われる呪紋の内容にしては、簡単な言葉。
“貴方の力を貸して。そして、私達の力になって!”
涙を溜めて自分に訴えた女性の言葉を脳裏に浮かべ、唇を噛み締める。
納得したから自分は此処に居る。自分の選択は間違ってはいなかった筈だ。正しかったか正しくなかったかを決めるのは自分ではない。
ただ、納得が出来ないのは、自分自身に力が無い事だ。
力が欲しいと思う。
誰の支えもなく、一人で事が成し遂げられる力が欲しかった。
『誰か……助けてくれ……』
そして、誰かに支えて欲しかった。
剣の柄を握りしめ、ソルティーは堅く瞼を閉ざし、柄に刻まれ消す事も出来なかった紋章に救いを求めた。
「あれぇ〜〜? お犬さんじゃぁありませんかぁ〜〜?」
考え事に手間取り、ソルティーが食堂に向かったのは昼を少し過ぎてからだ。恒河沙と須臾は宿にも戻ってこず、何処に居るか判らなかった。
「砂綬…だったか?」
「そうですぅ〜、奇遇ですねぇ〜〜。あのぉ〜僕もぉ〜この人とぉ〜同じ物ぉ〜お願いしますぅ〜〜。悩むのはぁ嫌いですぅ〜〜」
大きな紙袋を抱え、ソルティーと同じテーブルに腰掛ける砂綬だったが、四人掛けのテーブルだからかソルティーの斜め前に座る。
まだ妙な警戒心が解かれてはいないが、無視を決め込むほどではないのだろう。
紙袋の中身は、雑多に入れられていて上の方に置かれている干し物位しか確認できない。
「買い物はぁ〜〜大変ですぅ〜〜」
「そうらしいな」
本当に疲れているらしく、撫で肩を更に落とす。
「あのですねぇ〜、恒河沙とぉ〜須臾はぁ〜一緒じゃぁないんですかぁ〜〜?」
「ああ、朝出たっきり戻ってないから、街を散策しているんじゃないか?」
「そうですかぁ〜〜、駄目ですねぇ〜ご主人様をぉ〜放ってぇ遊んじゃぁ〜〜」
砂綬は砂綬なりに真剣に話をしているのだろうが、この超低速口調に言われても、あまり説得力が無いようにも思える。
時間の経過を無視する砂綬の前に食事が運ばれ、砂綬との話も終わるかと思ったが、砂綬はなおもソルティーと話を続けた。
「お犬さんはぁ〜どうしてぇ〜河南にぃ〜入るんですかぁ〜〜?」
恒河沙のように食べながら話はせず、一度口の中に物が無くなってから、砂綬は思い出したように話をする。
「…………時間が無いからだが、どうして?」
「いえねぇ〜〜。河南にぃ来る人はぁ〜、悪い人がぁ〜多いですからぁ〜〜。お犬さんはぁ〜お犬さんだけどぉ〜悪いお犬さんじゃぁないみたいだしぃ〜〜」
「悪い人? ……ああ、売人関係だな。そう言う者でも森は良いのか?」
作品名:刻の流狼第一部 紫翠大陸編 作家名:へぐい