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刻の流狼第一部 紫翠大陸編

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「良し! そうと決まれば、恒河沙、僕達一寸用事があるから、お前はそれ食べたら先に宿に帰ってて」
「お金は此処に置いて行くから、その範囲で食べてくれ」
「……うん」
 二人の気味が悪い笑いに、恒河沙は素直に頷いた。二人の話を聞いていた訳ではないが、須臾の様子を見れば『またか』位は思う。
 ソルティーまでがそれに乗るとは考えていなかったが。
 女性と寝ると言う事が、一体どういう事なのかを未だ理解していない、お子様な恒河沙を食堂に残し、須臾はソルティーを率いて外に躍り出た。
「ったく、おばさんといっしょにねるだけなのに、どうしてあんなによろこぶんだよ」
 須臾が居なくなった所為で、急に美味しくなくなってしまった食べ物をつつき、暫くして恒河沙は一人宿に戻った。



 蒜騨久の裏通りには、娼館が混然と立ち並ぶ一角がある。
 取り締まりも軽く、半公共施設の感もある其処には、多くの娼館と裏の術具店が夜だけ灯を灯す。


「お兄さん、何処から来たのぉ?」
 道の端はしに安物の薄い衣装を身に着けた女性達が立ち、其処を通る男に片っ端から声を掛ける。須臾が語ったように、彼女たちは見目形の整った者が多く見られた。
「ソルティーは何月位ぶり?」
「……数えるのも辛い位だ。ハーパーが貞操観念と、道徳観の固まりだからな」
 言葉にするのも辛そうな彼の言葉に、須臾も我が事の様に胸を痛めた。
 ソルティーに同情するよりも、これから自分も同じ事をハーパーに強要されるのではないかと言う不安からだが。
「でも今夜は彼も居ない事だし、パ――っとお姉さんに慰めて貰いましょう! と、言う事で、おっ姉さーん、今夜お暇ー?」
 こういう時には鳥目ではないのか、須臾は通りに立つ中でも一番綺麗な女性の元へと駆け出した。
 どうやら彼はこういった場所には慣れているらしいが、ソルティーは性格の違いもあるが、これを目的に色町に来た事は無かった。とても須臾と同じ様に気易く声をかけるなど出来ず、取り敢えず通りを一度歩く事に決めた。
 こんな場所である、こちらが声をかけずとも、そう時間もかけず向こうから声をかけてくるだろう。絡み付いてくる視線が、それを物語っていた。
 そうして見渡した通りは、朱陽の昇る間に生きている者とは異なる活気を放っていた。満ちているのは、生きる為に貪欲な渇望だ。
 金で情けを買う男と、金で情けを売る女。利害の一致は確かにあるが、もの悲しさは否めない。
――しかし、生きている。
 ハーパーならば穢らわしいとばかりに立ち去るだろうが、この中でしか生きられない者も居る。ここでしか心を癒せない者も居る。ソルティーには、それだけでも此処は充分だった。
「ねぇ、お兄さん? 好みの娘が見付けられた?」
 馴れ馴れしく腕に絡まる女の手に、やっと自分が道の中央で立ち止まっているのに気付く。しなだれかかるように自分の傍らに立つ女は、くっきりと谷間を覗かせる胸を腕に押しつけてきた。
「いい娘が居なかったら、あたしと遊ばない? お兄さんみたいないい男なら、安くするからさぁ」
 何処まで本気でそう思っているのか。値踏みをするかのような視線は、正直あまり気分の良いものではなかった。ただ須臾の様に自分から声をかける気にはなれなかっただけに、手近で済まそうかとも思う。
 そんな時、建物の間に隠れる様に立つ女の視線に気が付いた。
「ねぇそうしましょうよぉ」
「いや、今度な」
「なによそれぇ!」
 女の腕を振り解き、物陰に隠れた女の前にソルティーは立った。
 気弱な薄紫の瞳で見上げる女は、女性と言うにはまだ早い少女らしさが残っていた。小柄な体に小さな顔の化粧も薄く、頬に浮かんだそばかすもまだ消えそうもない。
 自分から誰かに声を掛けることも、まだ慣れていないような態度から、彼女が娼婦に身を落としてから幾ばくも経ってはないと感じられた。
「良い?」
「……あの…」
 まさか自分が声を掛けられるなんて思っていなかったのだろう。少女が戸惑い視線を向けた先には、先程の女が厳しい顔つきで腕を組んでいる。
「止めきなさいよ、そんな小娘。銅貨一枚の値打ちもないんだから。あんたも、そんな処で物欲しそうに立ってるから、男が同情すんのよっ! 新入りなら新入りらしく、通りの奥で立ってなっ!」
「あ…御免なさい……」
 女の迫力に気圧されて、少女は後ろに引き下がろうとしたのをソルティーが止めた。少女の肩に腕を回し、耳元に顔を寄せ、
「君が良い」
 耳通りの良い低い声で少女の頬を赤くさせ、一端怒りに震える女に向く。
「済まないな、俺は小さい娘が好みなんだ」
「何よそれっ! ……ざんけんじゃないわよっ! あんたみたいな悪趣味野郎なんて、こっちからお断りよっ!!」
「それは良かった。――じゃ、行こう」
「あっ…はい……」
 屈辱に顔を歪める女を置いて、ソルティーは少女の肩に腕を回し、少女の案内する娼館に向かった。
 それを、時間を掛けて口説き落とした目当ての女を傍らに、一部始終見ていた須臾は、
「まさかあんな趣味とはねぇ」
 ソルティーの意外な選択に驚いていた。
「どうしたの?」
「いえ、何でもありません」
――真面目そうな顔をして、結構危ない奴だったりして。
「さって、ではまあ、僕達の一夜の夢を語れる場所にでも行きましょうか? お嬢さん」
「ええ、行きましょうか? お兄さん」
 クスクスと喉で笑う女を従え、須臾も娼館へと消え、翌朝まで姿を見せる事は無かった。



 ソルティーが宿に帰ったのは、朝靄も引かぬ明け方だった。
 眠る名前も知らない少女の手に金貨二枚を握らせ娼館を後にした。
 女を金で買ったのは初めてだったが、独り寝に飽きていた事もある。微かに残る罪悪感より、体の充足感の方が遙かに強く、ハーパーには決して理解できない生身の人間らしさが、ソルティーには嬉しかった。
 そんな事を考えながら宿屋の二階に上がった処で、自分の部屋の前に誰かが立っているのに気付く。
「や、お帰りなさい」
 陽気に手を挙げる須臾の姿に、ソルティーは表情を曇らせる。余りああいう事をした後で、彼の様に顔を合わせられる程図太い神経ではないのだ。
「どうかしたのか」
「いやね、恒河沙が怒って部屋に入れてくれなくて。こんな時間だろ、何処も店開けてないから」
「怒ってる? どうして?」
「まっ、色々在るんだけどね。……取り敢えず、部屋に入れてくれないかな?」
「ああ」
 仕方なく鍵を開け、須臾を部屋に入れる。
 通りに面した窓を開け、須臾は勝手に椅子を其処まで移動させ自分の場所を確保した。
「で? どうだった?」
 荷物の中から取り出した新しいシャツに着替えるソルティーに、須臾は何の衒いもなく昨夜の事を切り出すが、聞かれた方の心境は複雑だ。
「……金を払ってやったのに、感想まで言わなくてはならないのか」
「それを言われると辛いけど、少し気になってね」
 揶揄するような口調から、やっと彼が自分が選んだ女の事を話にしようとしているのに気が付いた。
 禁忌。