刻の流狼第一部 紫翠大陸編
須臾の「遠慮しろ」は、「追加しても良いかを聞く」のだと恒河沙の頭には変換されたようだ。
ただしソルティーが驚異に感じたのは、別だった。
「まだ……食べられるのか?」
「うん。まだ入る」
「そ……そう……」
一度須臾に視線を向けると、僕は知りません、とそっぽを向かれた。
「だめか?」
「今度からは、何度も注文する前に大盛りにして貰いなさい」
「わかった! おばちゃん、おおもりついか!」
「あいよっ!」
明るく元気な恒河沙の声を聞きながら、 何となく須臾が金に煩くなった訳が判ったような気がしたソルティーだった。
三人が日置柘を出たのは一泊してからになった。
王国惣侘に入るまで、途中食料の補充に立ち寄る二つの村を経由するだけで、その間は野宿の繰り返しとなる。惣侘に入るまで大凡二十日、森に入り璃潤を経て擣巓に着くには一月半程かかる。それを思うと休める時には休むのが、後々の為にもなった。
ほんの少しだが、遠回りにもなる村の一つに入らず済ませても良かったが、恒河沙が拾い食いまでしてしまいそうだったから、宿に泊まる機会も増えていた。
惣侘に入国するには、幕巌の用意してくれた書簡で滞りはなかった。まさかその書簡に書かれていた言葉が、「此奴等通せ」だけだとは思いもよらない事だが。
どの国も産と傭兵の大半を持つ奔霞に逆らう事は出来ない。多くの物が奔霞を経由して流れている事実や、有事の際に傭兵を貸して貰えなくなるのは、国益を損なう事にしかならないからだ。何より惣侘を含め奔霞の周囲の国は、奔霞の力に守られている現実があった。
奔霞を離れれば離れる程、奔霞の傭兵団の偉大さに気が付く旅だった。
「おーなかへったぁ!」
もうすぐ惣侘の王都、蒜騨久(さんだく)も見え始めようかという道で、恒河沙の大声が響き渡る。
数刻前からこの声は残り二人の耳にも鳴り響いていたが、既に手持ちの食料は底をつき、どうしようもなかった。
「もうすぐ街も見えるから」
恒河沙を宥めるのは、何故かソルティーの日課になっていた。
覇睦大陸の言葉を教える事もあって、恒河沙と話す機会も多くなり、須臾は自分の荷を背負わす様に恒河沙の事を任せ、自分の仕事だけをしていた。
だからと言って須臾が恒河沙に構わない訳ではない。二人の仲は全く変わらず、心を許しているのは唯一相手ただ一人だけだった。須臾は恒河沙の行動総てに目を配らせているし、恒河沙は須臾が一緒でなければ食事もしない。
須臾にしてみればソルティーの存在は、一番自分が困る恒河沙の我が儘の受け皿にしか見えていないのだろう。
――幼なじみというのは、こういうモノなのだろうな。
ソルティーにはハーパーしか側に居ない。それだけでも構わない事だが、二人が羨ましくないと言えば嘘になる。
「あっ、街だ! 街が見えた!」
これで空腹もおさらばだと駆け出す恒河沙につられ、二人もそれに従って歩みを早める。
「今更後悔してないですよね?」
「いや、そう言う事は随分と前に無くなった」
自然と笑える自分にソルティーは楽しくなる。
今まで一度もこういう気持ちになった事が無いのは、確かな事だった。
蒜騨久の街は、王都という雰囲気からはほど遠いだろう。奔霞と国益の差も有るかも知れないが、静かな閑散とした街並みだった。小国地域への分岐路に当たる、鍾深(しょうみ)の方が賑やかと言えば賑やかだった。
見方を変えれば、森を越えてまで北に行く者も居なければ、南に来る者も居ないと言う事かも知れない。
「もう少し行くと、河南の寄り合いが有りますから」
恒河沙の胃袋を満たし終わった後、三人は須臾の案内で街の外れに建てられた小屋へと向かった。
須臾の話では、其処は森の住人が街に立ち寄る際に泊まる場所らしい。
森の契約住人を大きく分けると、依存型か開放型になる。
森から一度も出る事なく生涯を終える者達と、森以外の住人とも振興を深め、自分達の衰退を食い止めようとする者達。その森の管理者の性質にも依るが、河南の住人の契約は、比較的縛られていないと言えるのだろう。
「上手いこと案内人が居れば良いんだけど」
少し大きめの丸太小屋の扉を開け、須臾は中の様子を伺う。
案内人が何時でも居るわけではない。街に用事が無い限り彼等は森での生活に従事し、管理者との契約を第一とする。
「あれぇ〜、どうしたのぉ〜?」
妙に間延びした高い声が、小屋の中を覗く須臾の下から聞こえた。
「砂綬(さじゅ)?」
顔を声の方向に向け、多分間違いが無いだろう声の主の名前を呼ぶと、床にしゃがみ込み自分を見上げる脳天気な獣人は、
「そぉだよぉ〜砂綬だよぉ〜」
全身の力が一瞬で抜け落ちる言葉を発した。
「良かった、お前が居てくれて」
「なんでぇ〜?」
「須臾、あんない人いるのか?」
「あれぇ〜? その声はぁ恒河沙ぁ〜?」
須臾を押しのけ扉から出てきた獣人に、恒河沙は思わず飛びついた。
少々でっぷりとした猫が直立し、服を身に着けただけの体は、恒河沙よりも若干低い。
「砂綬ぅ、ひさしぶりぃ〜」
「恒河沙もぉ〜久しぶりぃ〜」
「誰だ?」
「ん? ああ、砂綬って言うんだけど、一応案内人。前に一度仕事で森を通るとき案内を頼んだんだよ。見ての通り、恒河沙と波長が合うらしくて」
「……そうか」
この種族だけは他のどの種族よりも獣の血が残るのか、人間との区別がはっきりしていた。
柔らかい砂綬の灰色の体毛に顔を埋め、その感触を楽しむ恒河沙の姿は確かに須臾の言葉通りに見えた。但し、砂綬の方が中身は大人だったかも知れない。
「でぇ〜なんのぉ〜用なんですかぁ〜」
肉球で恒河沙のほっぺたをプニプニさせながら、砂綬の方からそう切り出してきた。
「お前ねぇ、案内人雇う以外に此処には来ないだろう?」
「そぅなんですかぁ〜」
砂綬の真横に伸びていた髭が若干下がる。自分に二人がわざわざ会いに来たのかと、想像していたのだろうか。
「でも、おれは砂綬に会いたかったぞぉ〜」
「ありがとぉ〜」
顔の半分は有るかも知れないような大きな緑色した瞳を更に大きくし、髭をぴんと元に戻す。
どうやらこの獣人も、恒河沙同様に、感情の総てが顔に出るらしい。
「でぇ〜この人はぁ〜誰ですかぁ〜?」
短い指で指されて聞かれたが、それは須臾に向かっての質問だった。
何故か砂綬はソルティーからずっと目を反らしているが、どうしてだか理解できない。
「この人は今の僕達の雇い主」
「宜しくソルティー・グルーナだ」
「そうなんですかぁ〜〜、よろしくですぅ〜〜砂綬ですぅ〜〜」
初見の挨拶には応じるものの、決して視線を合わせようとはしない。
――まさかこれの所為か?
と、ソルティーが意識したのは、自分の腰に吊されている剣。
剣を最初に手にしたのは、人間だと言われている。獣族と比べれば、人間はかなり劣る存在だ。肉体的な力も、呪法の素質も恵まれていない。それらを補う為に、人間は武器を使い、封呪の研究をした。
今でこそ声高に差別を口にする者は少なくはなったが、武器や人間その物を嫌う獣族は多いだろう。
「んで、砂綬に河南の案内をして欲しいんだけど。空いてる?」
作品名:刻の流狼第一部 紫翠大陸編 作家名:へぐい