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刻の流狼第一部 紫翠大陸編

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「ホントに話せないの? おれもうべんきょーしなくちゃなんないのか?」
「本当だ。別に今直ぐ言葉を覚えろなんて俺は強要しないが、恒河沙がハーパーと話す機会が遅くなるだけだ」
 本心から嫌がる恒河沙に取り敢えず本当の事は話さない。そうすれば、彼の言葉の覚えも早いだろうと思ってだが、それは正解だった。
「……わかった! おれ、ぜったいはぼくの言葉おぼえる!」
 力一杯に決意を口にする。
 このまま行くと、意外に恒河沙は言葉を覚えるのは早いかも知れないと、その意欲に感心した。
「でもその前に、早く須臾に追いつこうか?」
「うん!」
 遙か先から退屈を掲げる様に手を振る須臾の姿に、恒河沙も手を振り返す。

 旅はまだ始まったばかりだ。





 奔霞の簸蹟を出てると、北には五つの村と三つの町が存在する。簸蹟同様に奔霞の色は濃く、町の活気は他の国に類を見ない。
 その一つ、日置柘(へきつ)と言う町に辿り着いたのは、簸蹟を出立してから四日程歩いてからだ。
 その日置柘で宿を借り、近くの食堂を紹介して貰い、三人はその食堂で遅い昼食を食べていた。
「これからどうするんです?」
 細かく切った焼きたての肉を口に運びながら、そう切り出したのは須臾だった。恒河沙は既に食後のデザートに手を出して、話に加わる気は毛頭ないようだ。
 須臾の言葉遣いはこの四日間で元に戻った。
 幾ら自分が(ソルティーの金銭に対して)丁寧に振る舞っても、相棒の恒河沙が普段通りでは、なんか自分の行動が情けなくなったからだ。
「どうする?」
「そう、このまま行くと惣侘(そうたく)の中程で分岐になるから」
「擣巓まで時間を掛けたくない」
「じゃぁ、森を通らなくちゃならなくなりますね」
「森か……」
 北に進む方法は、現在は二通りしか確立されていない。
 風壁が存在するのでは大陸の外を通過できず、奔霞よりまっすぐ北の昇るには必ず森に進入しなければならなかった。それを避けると、北東に進路を取り、小国が乱立する道を通る迂回しかない。
「まあ、森と言っても河南(かなん)の森は案内人も居るし、他の森に比べて比較的入りやすいと思いますけどね」
 須臾の言葉は明らかに気休めだった。
 この世界で人が絶対に逆らえない存在が三つ在る。一つは全ての根源となる理の力。もう一つが全てを拒絶する風壁。そして最後が、不可侵の刻印を人に植え込んでいる森だ。
 如何なる成り立ちから森が存在するかは誰も知らず、ただ森に認められた者達だけが、森への進入を許され、他は死を持って拒絶される例が数え切れないほどあった。
 ただ須臾のような獣族は人間よりも森から受け入れられ易く、勝手に入る事は出来なくとも制約に苦痛を伴う事は、人間に比べれば軽い程度だった。
 それだけ人間は森に嫌われている。
「余りハーパーを待たせる事は避けたいし。……どれ位の時間的差が生じる?」
「森を通れば半月以上の短縮は可能だけど、案内人次第でもあるかな」
「仕方が無いな、出来るだけ時間の無駄は避けたい。森を進もう」
 本来、人間ならば必ず迂回をする。ソルティーは微かに考えはしたが、決断は早かった。
 まさか森の脅威を知らぬはずはないだろう。須臾は訝しむ様に片眉をピクリとさせたが、決めるのは雇い主だ。
 そこで彼がどうなろうと、些かなりとも自分は困らない。勿論、そうなった場合、彼の亡骸は丸裸に近い状態で森に転がるだろうが。
「判りました。じゃあ、惣侘、河南、璃潤(りじゅん)で進め……」
「おばちゃん! これもう一つちょーだい!」
 空になった皿を手に大声を出した恒河沙に、須臾は折角の仕事らしい雰囲気を邪魔されて気が遠くなった。
「あんた良い食べっぷりだね。おばちゃん気分が良くなるよ」
「へへ…。おばちゃんのめしもおいしいぞ」
「ありがとよ」
 恰幅の良い店の女将に運ばれてきた、密漬けの果実てんこ盛りに須臾とソルティーは甘ったるい匂いだけで胸焼けを覚える。いやそれよりも、自分達の三倍は食べていながら、まだこんな物が食べられる恒河沙の胃袋に気分が悪くなりそうだ。
「お前、もう少し遠慮しろよ」
 恒河沙が美味しそうに口に運ぶ物から目を反らし、疲れた口調で須臾が諭す。
 七日分用意していた彼等の食料は、四日で恒河沙の腹に収められた。勿論雇い主であるソルティーの分でさえ、その類を免れる事もなく。
「それに、仕事の話をしている時は、嘘でも聞いている振りをしろって言ってたよね?」
 二人一組で傭われているのだから、片方の落ち度は自分の評価にも繋がってしまう。そうなれば勿論、後々の支払いにも影響するわけだ。
 須臾のそんな小言は、いつもなら建前だけは素直に聞き入れる恒河沙だったが、今回はかなり自信満々に否定した。
「おれはいーの。そーいーのは須臾の仕事だし、おれはおれの仕事の時にがんばるから」
「そういう問題じゃないって言ってるの、僕は!」
「そうなのか?」
「え……」
 傍観を決め込むつもりだったのに、まさか自分に会話が回ってくるとは思っていなかった。
 須臾は「甘やかすな」と目配せしているし、恒河沙は以前言ったソルティーの言葉に違った意味で素直に従っているだけだ。
 どう二人の間をとろうか迷ったが、
「須臾はせめて自分の話の間は黙っていて欲しいんだよ」
「でも、ソルティーはあんないは須臾の仕事だって言っただろ? おれかんけーないじゃん」
「そんな事言ったんですかぁ?」
 藪蛇だった。
「恒河沙は雇われて此処に居るんだよ? だから、自分の仕事とかそうでないとかは関係なく、仕事が終わるまで傭兵としてしていなくちゃなんないの!」
「……そう、なのか?」
「まぁ、須臾の言い分は間違ってはいないが……」
 どちらかと言うと、実感として自分が二人の雇い主であると感じられずにいた。幕巌との約束もあるが、その前に、まるでちょっとした遠出をしているだけの様な雰囲気の二人と居ると、どうしても雇い主としての立場を誇示することが出来なかった。
 だが恒河沙は恒河沙なりにソルティーに言われた事を、忠実に守っているつもりなのである。判っているだけに、どう取り繕って良いものか。
「ソルティーも、恒河沙をこれ以上甘やかさないで下さいよ。こいつただでさえ認識力も学習能力も無いんだから」
「はぁ……」
――どうして私が怒られなくてはならなくなるんだ?
 調子が狂う。こんな筈では無かった。真剣に考えるのが馬鹿馬鹿しい。
 とは思えども、最後には「仕方がないか」で終わる程度の後悔だった事にも、ソルティーは不思議な思いだった。
 良いか悪いかの判断は別として、二人に影響を受けつつあった。
 幕巌との約束もあって、二人を傭っている気分が薄れてしまったのも原因かも知れない。二人を無事に覇睦へと連れだし、無事にここへと帰さなければならない使命は苦痛でしかないが、その苦痛を和らげる方法をこの二人自らに教わっている。そんな、ともすれば楽しいとさえ感じる始末だ。
「なぁソルティー」
「うん?」
「もう一つ食べたい」
 怒られながら何時食べたのか、綺麗に食べ終わった皿を手に自分を見上げる恒河沙に、思わず顔が引きつる。