刻の流狼第一部 紫翠大陸編
幕巌の子飼いはそうやって増やされていった。
彼等総てがそうなる事を望んだ。幕巌の言葉に従って死ぬ事は、彼等には名誉な事であり、ただ一つ自分達が胸を張れる事でもあった。たとえ幕巌がそれを望んでいなくても。
「……店長だろぉが、ったく。まぁいい、その誇りがこの国が戦になった途端無くなっちまう、その程度の誇りだった事が判ったんだよ。だから俺は、この瀬戸際だからこそ俺は俺の為に賭をしたんだ。俺だって自分が可愛いさ、でもなお前達はもっと可愛い大事な奴等なんだ。それを無くさねぇ為にも、俺は無謀な賭をしなくちゃなんなかった、それだけでも判ってくんねぇか?」
「……お頭…」
「店長だ、少なくとも此処でだけはそう言ってくれ」
この店に居る限り幕巌は幕巌で居られた。一歩外にでれば、奔霞の頭首となる身で在るなら、せめて此処に居る間だけでも自分で居たかった。
「なぁ、おめぇ竜族って言うのを見た事が有るか?」
自分を見上げながら突然切り出された言葉に首を振る。
「俺も初めてだ。まさか生きてる内に、あんなとんでもねぇもんを拝ませて貰えるたぁ思っても見なかった」
「俺もです。実際見ても、俺はまだ信じられません! あんなの物語の中にいるだけだとばっかり……」
ハーパーの姿を思い出し、感動と緊張も同時に蘇る。どんな事にも動じないように心を抑える訓練をしていても、圧倒的な威圧感を所有する者にはかなわないだろう。
「俺もだ。実在するのを識ってても、まさか本当に居るとは誰も信じちゃいねぇ。それも、人に従う竜族なんて、夢物語以上だ。だがなぁ、俺は聞いた事があるんだよ」
「店長?」
「大昔の夢物語で、竜族を従え恒久の平和を手に入れた王国の話をな」
何時の事だったかはっきりとは思い出せない。しかし、誰かが幼い自分にそう語った。
“いつかお前が大人になり、出会うかも知れないね”
そう、優しく語りかけたのは、一体誰だったのだろうか。
彼だったのか、彼女だったのか、それすらも思い出せない幼い自分に語ったその人は、自分に何を伝えたかったのだろうか。
子供に夢を与えたかったのか、それともこの現実を知っていたのだろうか。
「まぁ、どうでも良い事か」
どちらにせよ、事は動き出してしまった。
幼い頃の話がどうであれ、彼等に総てを託すと決断したのは自分自身だ。今となってはそれを信じるしかない。
「おい、今日の締めは終わったんだろうな」
「はい」
「ならとっとと寝ろ。店開けにお前が居ねぇと俺がしなくちゃなんねぇ」
「判りました。お頭も早く寝て下さいよ」
「店長だと何度言わせるんだおめぇはよぉ!」
怒鳴られても笑う彼を溜息を交えながら追い立て、一人残される形となった幕巌は、煙草を燻らせ、窓から微かに見える空を見た。
「俺の人生も満更捨てたもんじゃねぇな」
望んで今の地位にいる訳ではない。その所為で妻と子供に別れを告げなくてはならなくなった。嫌な事も見せられて来たし、見せても来た。誉められた人生ではないと思いながらも、逃げ出さなかった事も事実だ。
それら総てをひっくるめ、幕巌は今漸く自分の道は間違っていなかったと思う。
北門を出てから暫くし須臾が先頭に立つ。
一応、彼等の仕事の最初が紫翠大陸の道案内だからだ。
「なぁ、りゅうのおじいちゃんは?」
ソルティーの横を歩く恒河沙の言葉に一瞬歩みが止まる。
「竜のおじいちゃん? ……ハーパーの事か?」
他に誰もその言葉に該当する者などいないが、その表現の仕方に目眩がする。
――私がおっさんで、今度はハーパーがおじいちゃんか。
背中に感じるソルティーの困惑がひしひしと伝わって、須臾は無視を決めつつも笑いを堪えるのに苦労した。
「どうしていないんだ?」
「彼は先に行って貰ったんだよ。あの体だ、必要以上に目立つだろう?彼は空を飛んで行ったよ」
尤もらしい答えを言い、本当の理由をまずは隠す。
「えぇ〜〜」
朱陽が昇りだし、徐々に明るくなる空を指さすソルティーに、恒河沙は思いっきりの落胆を見せる。
「つまんねぇ。店にぜんぜん来てくんねぇから、少しも話せなかっただろ。やっと話ができると思ってたのに、なんでいないんだよ」
「悪かったな、先に言って無くて。ハーパーには、どうしても先に済ませて貰わなくちゃならない用事があったんだ。こればっかりは仕方がないと思ってくれないか? これから先、絶対会わない訳ではないのだから」
「う゛〜〜〜」
不承不承頷いても、期待した事を裏切られては落ち込むしかない。
「恒河沙はハーパーさんに抱っこして欲しかったんだよね。自分の背が低いから、高い処から見下ろして見たかったんだよねぇ?」
「須臾っっ!!」
思わぬ横槍に恒河沙は赤面し、ソルティーは思わず吹き出してしまった。
「だって本当だろ? 言ってたじゃないか?」
「だからって、ばらすことないだろっ!!」
怒りで走り出した恒河沙に、逃げる須臾。二人の様子に微笑ましいモノを感じながらも、ソルティーは沸き上がってくる不安を押さえる事が出来ない。
恒河沙は仕方ないとして、須臾ですら子供らしさを残している。その彼に自分は雇い主として擣巓に着いた時、大人の選択を強いなくてはならない。それを断れない立場である事を知っている彼に、自分はどう切り出せば良いのか。
――所詮私も人の子でしか無い事か。
ハーパーならば迷う事はしないだろうが、ソルティーは依然迷いを捨てきれずにいた。
「……どうしたんだ?」
さんざん須臾に殴る蹴るの鬱積をぶつけ終わり、帰ってきた恒河沙の言葉にソルティーは我に返り、ふっと笑みをこぼした。
――せめて彼だけは変えないようにしよう。
「いや、何でもない。それはそうと、ハーパーを竜のおじいちゃんと言うのは止した方が良い」
「どうして?」
自分にしては格段に“ましな”言葉に疑問がない恒河沙は、何故この言葉を否定されるのか解らない。
「彼は彼の一族では随分と若い方だよ。見掛けがあれでは仕方がないが、自分が若いと信じている彼におじいちゃんと言うのはどうかと思う。彼の事はハーパーで良い」
「ホントに? おこんない?」
「ああ、大丈夫だ。それ程心の狭い者じゃない。それともう一つ」
「まだあんのぉ?」
「彼と話をしたければ、早くリグスの言葉を覚えないと駄目だな。彼は向こうの言葉しか話さないから」
「げぇ〜〜マジかよぉ〜〜」
「マジマジ」
嘘である。
ハーパーは紫翠と覇睦の言葉を話せるどころか、世界中の、少なくとも彼の翼が届くどの地域の言語を扱える。だが竜族ほど誇りを重んじる種族はなく、叡智をひけらかしもしない。彼にしてみれば、下等な人の一種にこちらが合わせてやっているのだから、それ以上は人の方が努力して合わせるべきだ、と言う事だ。
力を持たない人によっては、それを傲慢だと感じる者が居るだろう。だが竜族は、無力ながらでも努力する者には、何の見返りもなく智を与える。
与えるだけが優しさではない事を、誰よりも知っている彼等の一人と懇意にしているだけに、ソルティーは礼節を持って彼の意志を尊重したかった。それが自分に出来る、彼の忠節に対する唯一の方法だった。
作品名:刻の流狼第一部 紫翠大陸編 作家名:へぐい