刻の流狼第一部 紫翠大陸編
確かに話合って旅に出た。しかしその間も、この会話が無くなった例しはなく、そして何時も最後にはハーパーの強固な意志に阻まれていた。
ソルティーにとって、これが最後のハーパーに突きつけた選択肢になる筈だったが、その裏では今までと同じ答えを期待していなかったと言えば嘘になる。
自分にしか出来ない事も、彼にしか出来ない事も総て知り尽くし、その均衡も巧く保たれている今の状態は、確かに歯車が合った有益な状態だった。それでも彼に嬉しい答えをもたらされながらも、ソルティーは自分の至らなさを悔やまずにはいられない。
――もっと力が有れば、誰も巻き込まずに済んだのに。
それがソルティーの偽り無い心境だった。
『さあ、簡単に頭を下げる事など、我は教示した覚えは無い。主は主らしく、己に誇りを持ち、恥じる事など無い生き方をなされよ』
子供の頃から何度も聞かされた言葉に、漸く頭を上げたソルティーに、ハーパーは満足げな表情を浮かべた。
『主、何時までも無用な事に費やす時は無い筈。話を先に進めようではないか』
『……判ったよ。そうだった、時間は余り残されていないな』
子供の頃に戻ったようだ。
何か自分がすると、直ぐに彼が現れては諫められ、泣いて謝ると『おいそれと涙を見せるものではない』と、怒られる。それでも泣きやまなければ、今度は彼が困り果て、最後にはその大きな肩に乗せ広大な世界を見せてくれた。
そんな彼を、子供の頃からどれだけ慕っていたか。今でもそれが変わる事はない。
たとえ、今はもう彼の肩に乗る事は出来なくても、彼が自分の事を主と呼び友にはなれなくても、ソルティーにとってハーパーは掛け替えのない、親友や家族と呼べる唯一の存在だった。
『ハーパー、ありがとう』
『……主に礼を言われる覚えは無い』
言葉はともかく、彼がちゃんと照れているのを見て、ソルティーは話を擣巓の事に戻す事にした。
取り敢えず、この先の手順を一通り説明し終わり、二人が眠りに就こうとしたのは既に蒼陽が天上に昇りきってからだった。
ソルティーは何度も寝返りを打ちながら、自分がハーパーに感じた感情と似た思いを吐露した幕巌の話を思い出していた。
「俺は……、あんたに嘘を吐いた」
賭の話も終わり、情報料の取引も済まし、店の方に帰ろうとしたソルティーを止めたのは、そんな言葉だった。
足を止めたソルティーに対して幕巌は、テーブルに額を押しつけ、必死の嘆願を口にする。
「あの二人が俺の知る中じゃぁ腕が立つ、そりゃぁ嘘じゃねぇ。だが、あんたが必要としてる傭兵な訳でもねぇんだ」
「どういう事だ」
幕巌を信用したからこそ、ある程度の気持ちを抑えてあの二人を傭う事に決めた。それを今になって覆すような台詞を言われたのでは、流石に納得は出来ない。
「今更こんな事を言うのは卑怯かも知れねぇ、でも俺はなんとしても彼奴等二人をこの国から連れだして欲しいんだ! お願いだ、二人を紫翠から連れだしてくれっ!」
「理由が有るからそう言うのだろ? それを聞かせてくれないか?」
少しだけ頭上げ、幕巌は思い詰めた感じで言葉を並べ始め、ソルティーはもう一度椅子に腰を落ち着ける。
「この国は、擣巓が戦になれば必ずそれに巻き込まれる。それが民主国家と言っても産業国である奔霞の変えられねぇ実状だ。そうなりゃ、否が応でもこの国にいる傭兵はもとより、戦える奴ら全員が戦争って言う泥沼に引き込まれちまう。俺達は良い、この国のもんだ、巻き込まれても仕方がねぇし、この国を守る義務がある。そこいらの傭兵もそうなる事を待ってるどうしようもねぇ連中だ。だが彼奴等は違う。腕が立つと言っても、傭兵とすりゃぁまだ駆け出しに毛が生えた程度の、ちっせぇ世界しか見てねぇ子供だ。戦なんて子供が見るもんじゃねぇ、ありゃぁ、欲と真っ赤な血だけしかねぇ生き地獄だ!」
「戦の報奨金は莫大だからな。そんな場所に我先に行きたがるのは、ただの人殺しか何も知らない若者……」
「そうだ、だから俺はあんたに嘘を吐いた。彼奴等が此処に留まれば、遅かれ早かれ、彼奴等の手に二度と取れねぇ汚れた血が付いちまう。血の落とし方も満足に知らねぇ内に、そんなもんを知っちまったら、そりゃただの人殺しだ」
自分がそうだったかのように、幕巌は自分の両手を悔しそうに見つめた。
「もしあんたが彼奴等を品定めでもして契約を延ばしてんなら尚更だ、この通りだ! 彼奴等を此処から連れ出す為にも、契約を交わしてやってくれっ!」
本来、どの傭兵にも平等でなくてはならない幕巌の表の顔。その立場を忘れ、たった二人の、しかも此処に来て一年しか経たない者達に対する扱いは、絶対あってはならない情けだ。ただ、だからこそ二人に直にそれを告げる事が出来ずに、こうしてソルティーに頼んでいる。
彼の立場を考えれば誉められた良心ではない、と、ソルティーは感じたが、反面、その良心を持つからこそ、この国の者が彼を信じるのも感じ取っていた。
「俺の仕事が汚くないとは言えない。もしかすれば、彼等は戦より酷いモノを見るかも知れない。俺にあんたの頼みを背負う事は、出来はしない」
初めてソルティーは恒河沙達を雇うかを悩んだ。
一度たりとも二人を雇う事を辞めようと思わなかったのに、幕巌の彼等に対する思いを感じれば感じる程、自分がその役目を負うには辛すぎる思いだった。
幕巌は当然だと思える彼の言葉に首を振った。
「雇い主が居ると居ないとで、傭兵の生き方は違う。戦には雇い主なんて立派な大義は存在しねぇ、そこに居るのは生き残る事だけに執着した、どす黒い怨霊に支配された奴等ばかりだ。もし仮に、あんたが見せる現実が厳しいモノだとしても、それは傭兵として彼奴等が見なくちゃなんねぇ現実だ。彼奴等に今必要なのは、戦なんて滑稽な代物なんかじゃなく、自分達の持つ大義と意義の大きさを測れる場所だ。俺は、あんたがそれを彼奴等に与える事が出来る人間だと信じて頼んでる」
そうでなければ、今さら言いはしない。
この数日間の三人の様子を見れば、間違いなくソルティーはちゃんと二人を傭い、この大陸から連れ出してくれる。だがそれでは心に蟠りが残ったままになってしまう。
傭兵などは、何時何処で死んでも不思議ではなく、二人が無事に戻ってくる保証もない。何よりソルティーとは、彼が旅立てば間違いなく二度と会う事はないだろう。それが判っていて、何も言わずに済ます事は幕巌には無理だった。
「無理は承知だ。こんな勝手な話、あんたに関係がねぇ。そんな事は端から判ってての馬鹿丸出しの俺の願いだ。それでも俺は、この我が儘を押してでもあんたに頼むしか他がねぇんだ! 判ってくれっ!!」
再度、打ち付けるように額をテーブルに擦り付け、幕巌は声を張り上げた。
幕巌の気持ちは痛いほどソルティーに伝わってくる。
この世界に住む者の殆どが、一度は戦争という名の洗礼を受けている。それ程この世界は戦の連鎖を断ち切る事が出来ていない、混沌の時代を進んでいるのだ。
恒河沙と須臾がどんな夢を持って、この戦いを前提とした傭兵業に足を踏み入れたのか幕巌は知らない。しかし二人には純然たる道を歩んで欲しいと思っていた。
作品名:刻の流狼第一部 紫翠大陸編 作家名:へぐい