刻の流狼第一部 紫翠大陸編
「此処に書かれてるのが最近、敦孔伐が襄還宗に武器調達を条件に送り込んだ政務官の人数だ。勿論表向きは違う。今は襄還宗の信頼を得る為に大人しいもんだが、此奴等が動き出せば、聖聚理教はもとより、擣巓自体も倒れるのに時間は掛かるまいな」
「その時まで、どれ位の時間が掛かると思う」
「さぁな…。今となっては襄還宗の動きよりも、他の動きの方が重要だが、今の北部はどの国も神経質になりすぎて、まともに交渉に耳を傾けてもくれねぇ。おいそれと子飼いを送り込めば、反対にこっちの身が危うくなる。変な話だが、今ある頼みの綱は、襄還宗の良心位だろうな」
「聖聚理教が親だからか」
「それも理由の一つではあるが……」
そう言って幕巌は二本目の煙草を口にする。
ゆっくりと煙を吸い込みながら、何処までこの男を信用して良いかを迷った。
信用に足るかどうかの判断は、充分良い方に自分の勘は向いているが、既に自分の役割は果たしている。これ以上踏み出せば、自分の立場を悪くするかも知れない。
――どうせ戦になりゃぁ、此処も巻き込まれる。今更自分の立場もねぇ話か。
煙を吐き出した時に幕巌の心は決まった。
十割この男を信用すると。
「これから俺が話す事は、噂でもなん手もなく、紛れもねぇ事実だ。だが、この話は俺個人の話になるし、そっちも聞いて終わりじゃ済まねぇ。悪い条件と良い条件、差し引き無しの賭だ、それでも良いなら腹括って話す。どうだ、この際だ俺の賭に乗ってみないか?」
この賭が自分にとっても大きな意味を持つ知りつつ、幕巌は己の勘に総てを委ねた。
当然ソルティーの返事はすぐには無理だと考えていたが、彼は一息分しか間を開けなかった。
「俺はあんたを信用すると言った。そのあんたが出す賭だ、俺にはそれが悪い話に聞こえないな。それに、此方にそれを断るほどの選択の余地があるようにも思えない」
口元に笑みを乗せたソルティーの言葉は、そのまま幕巌の賭に乗ると言う事と同等の意味を持つ言葉となった。
「おっそいなぁ、なに話てんだ」
須臾がカウンターの恒河沙の隣に席を移してから、随分と窓からの光が場所を移動させた。
ソルティーが入っていった従業員用の扉を見つめながら、恒河沙は何に対して自分がふてくされているかも判らず独り言を繰り返す。
「何珍しく他人に関心してるの? もしかして彼の事気に入った?」
「そんなんじゃない」
「ふ〜ん、その割には先刻はやけに素直そうだったじゃない? 僕以外でそう言うの見せるの初めて見た」
茶化す物言いに、扉から一気に自分へと向けられた恒河沙の頬が、僅かに上気しているのに須臾は声を出して笑い、思いっきり睨まれた。
「だ〜か〜ら〜、ちがうって。お前のかんちがいだ!」
「いやぁ、とうとう恒河沙も親離れする歳になっちゃったのか、僕は悲しいよ。この三年間どれ程苦労してお前を育ててきたか、それが出会って数日の男にかっ浚われると思うと、これが娘を嫁に出す父親の心境なんだね」
大袈裟な芝居めいた科白を並べ、心痛極まりないと言った身振りまで加えて、自分の世界に入る須臾を、恒河沙は益々赤くなる顔を隠しもせず、とうとう
「だからっ! ちがうって言ってるだろっ!!」
爆発した。
「ちがうんだよ! 須臾がどうとろうと、ちがうったらちがう!」
椅子を蹴飛ばし立ち上がった恒河沙の声と音に一瞬、そう言う事に慣れている須臾でさえ驚きを隠せなかった。
「ご、御免、冗談が過ぎたよ。本当に御免」
倒れた椅子を起こし、宥めて恒河沙を座らせる。
「僕の嫉妬だよ。恒河沙が僕以外に打ち解けたの見て、少し嫌だった」
「だから、ちがうんだよ」
「うん、知ってるよ、恒河沙の事は僕が一番理解してるから。で? 彼に何を感じたの? 初めから態度おかしかったよね、お前にしては」
おそらく恒河沙自身は気付いていないだろうが、彼のソルティーへの接し方は明らかに他とは違う。
確かに何を言っても理路整然と受け応えてしまうソルティーを相手にすれば、如何に恒河沙であろうともとは思っても、我が強く引き下がる事を知らない筈の彼が、こうも手足の何れかを出さないのは不思議に思われても仕方ない。
しかも実際に何かを感じていると言った須臾の予測は正しかったらしく、恒河沙は少し考えてから口を開いた。
「…………おんなじ、……ふあん」
「不安?」
ぽつりと漏らされた言葉に、須臾は恒河沙の肩に腕を回した。
顔を近づけ、彼の言葉を一言も聞き漏らさない様に。
「おれ、あたまわりぃから須臾にうまいこと話せない」
「良いよ、お前の言葉で。僕はちゃんと判るから」
「うん。あのさぁ、昔がないのって、なんか水の中にいるみたいなんだ。目の前にある光がつかめそうなのにつかめないきもちわるいかんじ。須臾が話してくれた昔のおれって、今のおれじゃないんだろ? だから、ずっとおれ、ちゅうにういてるかんじがして、今ここにいるおれはおれなのに、ほんとーはここにいないんじゃないかって」
「それが、お前が感じた彼との共感?」
「わかんねぇよ、だって、あいつはおれとちがうじゃないか。昔があんのに、おんなじだと思うほーがへんだろ」
「そうだねぇ、僕には知る術がないからどうとも言えないけど。でも、恒河沙はその共感から彼に同じモノを感じたんだよね」
「おれにわかるわけないだろ、自分のこともわかんないのに」
恒河沙は唸るようにそれだけを言い、頭を抱えて塞ぎ込んだ。
三年前から幾度となく記憶を回復する治療を捜し、それを試しても来た。しかし効果があった試しは無かった。二人が覇睦大陸に行こうと思ったのも、見知らぬ大陸なら新しい治療法があるかも知れない、そんな淡い期待からだった。
傭兵としての生き方にしたのも、手っ取り早く大金を手に出来るし、世の中の仕組みを覚えるのに適していたからだ。
ただ普通に生活するだけなら、田舎での静かな暮らしも悪くない。恒河沙が今の自分に不満があるわけでもなかった。彼はただ漠然と須臾がそうした方が良いと言うから、それに従っているのに過ぎないのだ。
――僕も自分が判るほど、出来た奴じゃないんだけどね。
須臾にもそれなりの思いがあった。
恒河沙の保護者をしているのも、元々彼には身寄りは無く、子供の頃から家族として生活していたからである。成人の儀式を終え、独り立ちさせなければならないと判っていても、記憶を無くしてしまった彼を放ってはおけない。
これから何時までも一緒に居れる訳じゃない。そんな現実は初めから判っていた。恒河沙が女の子なら話は違うが、彼が一人で生きていく為には、自分の存在は仇にしかならない事も。
実質、須臾の感情は子離れできない親の思いに近いだろう。頼りっきりになられるとこのままでは駄目だと思い、頼りにされないと不安になる。
「名前、こーかんしたんだ」
思い出したように、小さく切り出された言葉に、須臾は一瞬むっとする。
嬉しそうな語感が感じられたからだ。
「名前?」
「これ」
大事そうに取り出された紙には見覚えがある。先刻自分が二人分の名前を書いているときに、ソルティーが走らせていた文字だった。
作品名:刻の流狼第一部 紫翠大陸編 作家名:へぐい