刻の流狼第一部 紫翠大陸編
「だから期待できねぇって言っただろ。売られたのは事実だが、それから先はさっぱりだ。一応その手の愛好家に問いただしはしてみたが、そんな剣なら自慢の種になるって、反対に売れと言われる始末だ」
「そうか……」
「だからな、俺の見解だが、その剣はもうこの大陸には無いだろうな」
幕巌は大袈裟に両手を挙げ、ソルティーはその姿にもう一度溜息をもらした。
「別に好事家だけが剣を持っている訳ではないだろう」
「そりゃぁな。――このご時世だ、武器の一つも持ってない奴の方が少ないってもんだが、その剣が幾らで売られたか判るか? 金貨で千、まっ、王貨で支払われたらしいが、価値に変わりはないだろ。実際三十年ほど昔の話だ、今ならもう少し上をいくだろう。剣一本が金貨一枚もいらねぇこの世の中に、そんな剣を持ち歩いてる酔狂者が居ようものなら、自慢じゃないが俺の耳に届かないのはおかしな話だ」
それは情報を扱う者としてではなく、剣に命を懸ける者達を相手にしている者としてだ。
酒場で夜ごと日ごとに繰り広げられる武勇伝の中には、自分の持つ剣の素晴らしさを説く者も多い。中には剣に魅せられて、道を踏み外す者さえもいる。
「実際、悪いと思ったがその剣、借りついでに調べさせてもらった。その剣は理の力で出来た世にも希な一品だ、現に最近じゃぁ愛好家筋の話題は、その剣だけでもちっきりだ。細工も今じゃお目に掛かれねぇ類のものだし、もし仮にこの紫翠に在るなら、何処ぞの王国の国宝にでもなりそうな勢いだ。まっ、そんな話は聞いた事がないがな」
徐々に熱が入りだした幕巌の話に、少なからずソルティーは恐れを感じた。
何処までが推測なのか掴めないが、少なくとも彼の勘は的確すぎる。だからこそここまで調べる事が出来たのも事実だが、裏を返せば見透かされているのではないかと、不安さえも抱いてしまいそうだ。
「まぁ、俺はそんな武器に興味も愛も感じないから、その剣の価値がどういった場所で発揮されるか理解できないが、兎に角その剣の片割れは、紫翠大陸のどの国の宝物庫にも眠っていなければ、誰の腰にも吊されていない。多分、覇睦に渡っているんじゃないか? 俺としては、そっちの線で捜した方が良いように思うね」
ソルティーの微かに見せた険を感じ取って、幕巌は話を切り上げる事にした。
この目の前にいる男とその連れには並々ならない興味が沸き上がるが、自分の本能に面した部分で、深入りは危険だと囁いている。外れた試しがない本能が。
「どうする、俺は金さえ貰えれば構わねぇからもう少し続けても良いが?」
「いや、無駄だろう。あんた程の男に無駄な時間を使わせた」
含みのある言葉に幕巌は片眉を無意識に上げ、ソルティーはそれに苦笑する。
「聞いたよ、この誰の支配も許さない国を、一体誰が纏めているのか」
例え王が存在しなくとも、誰かが指針を示さなければ国は混迷する。奔霞は韵嚀以来、表立って民を導く者は居ないが、陰で国を動かす者が必ず存在した。
誰もその名を口にはせずとも、奔霞で最も重要な働きをする傭兵が何処に集まり、そして誰の言葉に従うかを見れば、自ずと答えを見つけ出すのは容易である。そして彼の者の名を口にした時には、誰しもが信頼の表情を浮かべながら、無言で頷くのだ。
しかし当の幕巌は、勿体ぶった言い方を笑い飛ばした。
「いやしねぇさ、そんな奴は。もし居たとしても、そりゃぁあんたの考える様な出来た奴じゃない。そいつに出来るのは、かみさんと子供に逃げられた寂しさを、他人の噂で紛らわせてる小さな奴さ。とてもこの国を纏める事が出来る、器のでかい奴じゃねぇ」
戯けて肩を挙げる幕巌に、それ以上の詮索は辞め、ソルティーも調子を合わせる。
「それは情けない奴だな」
「ああ、そうさ」
どちらとも無く笑いが漏れ、それがしばし続いた。
「……ああ、久しぶりに笑えたよ。しかし、此処からはちっと笑えねぇ話だ」
長くなった昔話を打ち止め、幕巌は笑いから滲み出た涙を拭うと仕事の顔に引き締めた。
「前に話した噂の事なんだが……」
「動きがあったのか」
「いや、それはまだだが、繋ぎが取れたんだ」
テーブルに置かれたままだった紙を捲り、その内の二枚をソルティーに手渡す。
「良いのか、俺が見ても」
「ああ、あんたの意見って言うやつを聞かせてくれ」
天上を仰ぎ見る幕巌の言葉に従い、書かれていた擣巓の政治状況にソルティーは慎重に目を通した。
そこには建国から数えて三百年にも及ぶ聖聚理(せいしゅり)教と、そこから枝分かれしていった幾つかの政治宗教団体の動向が、端的に書かれていた。
大雑把に分ければ、聖聚理教内には教義に法った穏健派と、それに異を唱える急進派の二つの派閥が建国僅かにして産まれ、現在に至るまで国の中核で絶えず争っていた。
信仰国と言えども、国を支配するのは王である。その王が先代まで穏健派を支持していたが、二年前に継いだ現国王阿倶頭(あぐと)の優柔さから、急進派の中核である襄還(じょうかん)宗の台頭を許す結果となっていた。
今はまだ穏健派を支持する者達が、政治圏内の大半を占めている。しかし襄還宗が国境付近を中心に勢力を伸ばし、裏で他国と交渉している事を考えれば、襄還宗が現在の情勢を覆すのは時間の問題かも知れない。
ソルティーの手にしている紙の中では、最早噂話ではない現実が有り、擣巓は非常に危ない均衡を、どうにか保っているに過ぎないのだ。
「……愚だな」
一通り確認したソルティーの第一声は冷ややかなものだった。
「戦わずに結果だけを受け入れようとする聖聚理教も、自分自身の力だけで戦おうとしない襄還宗も、俺から見れば愚かだ」
紙の中には対する二つの信仰的な思想までもが書かれ、それこそがこれから起こる戦の原因と記されていた。
「“我が心は一振りの剣なり。我が拳は理無き言葉なり。我が両足は大地からの礎なり。故に我が魂は精練を持って地に帰る者なり”」
「それが教義か?」
「ああ。人は武器を持たなくても他人を傷付ける事が出来る。だからこそ争わずに死す瞬間まで、他人を傷付けるかも知れない己の心を見つめ続けようではないか。確か、そう言った教えだったな」
「信じているのか?」
「まさか、俺は無神論者だ。自分が見聞きした以外は信じる暇がない。もっとも否定はしないが、信じて居るんなら、こんな商売してねぇな」
苦笑し、上着から取り出した煙草に火をつける。
「あっ、煙草は嫌いか?」
「いや、良かったら俺にも貰えないか。連れが煩くて滅多に吸えない」
「だろうな」と、幕巌は快く手にした煙草をソルティーに差し出した。
「まぁ、話を戻すが、この知らせからして、確かに襄還宗は第二の聖聚理教になろうとして動いてる。そりゃぁ間違いないだろうが、ただ周りの敦孔伐(たいくばつ)や唐轍も馬鹿じゃない。遅かれ早かれ襄還宗に手を貸すとしても、それは擣巓の利益総てを手に入れる為で、必ずしも襄還宗の思惑通りに動くもんじゃねぇ」
幕巌は手元に残った紙を指し、ソルティーもそれに目を向ける。
作品名:刻の流狼第一部 紫翠大陸編 作家名:へぐい