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刻の流狼第一部 紫翠大陸編

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――自分すら理解できない人間が判断する事ではない。
「で? 名前は教えてくれるのか?」
「ああ、何か書く物は」
「用意している」
 そう言って取り出された携帯の筆記具から筆を借り、須臾は心の中で呟きを漏らした。
――やっぱり金持ちだ。これ一式で五日は遊んで暮らせる。


「あまりそんな物ばかりを飲み食いしていると、太って動きが鈍くなるんじゃないか?」
「よけいなおせわだ」
 カウンターで甘味水と摘みの菓子類ばかりをほおばる恒河沙の言葉には、依然ソルティーに対しての険が込められていた。
「隣、構わないか?」
「かってにすれば。って、とんなよおれのだろ!」
「俺の金だろ? 足りなければ追加すればいい」
「……へいへい、そーでございました」
 どうも調子が狂ってしまう。
 自分の立場はわかっていても、喧嘩は別にあった筈なのに、この男相手だと何時も空振りに終わってしまう。幾ら文句を並べても、正論で返される。しかも丁寧に自分の判る言葉でありながら、子供に言い聞かせるような腹立たしい感じがない。
 まるで須臾が二人になってしまった様で質が悪い。
「それにしても幕巌は遅いな……」
「なぁ、須臾から聞いたんだろ? どーすんだよ」
「どうするって、何をだ?」
「なにをって……、おっさんがほしがってたの、ここにくわしい奴だろ? だったら、おれじゃだめだろ。それにおれ、あたまわりぃから、はぼくに行けばぜったいみんなにめーわくかけちまう」
 床に着かない足を時折カウンターにぶつける仕草に、子供らしさが見え隠れする。
 けれど傭兵として頼まれたからには、それなりの結果を残したい。単に我が儘だけを言う子供で終わらせたくはない。そんな恒河沙なりの真剣さがソルティーにも伝わってくる。
「別に関係ない事だろ?」
「かんけーなくないと思うぞ?」
「そうか? なら、ここに詳しい奴は一人でも充分だ。お前の相棒はその点に置いて確からしいし、俺は道案内以外にも仕事を頼んでいる。それにはお前達二人が必要だ。こういう答えでは駄目か?」
 真剣さには真剣さで返す、それがソルティーの答えだった。
「……おっさん、あんがいいー奴じゃん」
「一言余計なんだよ、このお子様。……ほら、これをやる」
 一枚の洋紙を恒河沙に渡し、側まで来た店員に「いつもの」と、蒸留酒を頼む。
「なんだよこれ?」
 洋紙に書かれていたのは、見た事もない文字だった。
「俺の名前。此方には二人の名前を書いたのがあるから、一応な」
「いらねぇよ、こんなもんもらったってどうせおれには……よめねぇし」
「……そうか」
 突き返された紙を受け取り、前に置かれたグラスを口に運ぶ。
 その姿を横目で見ながら、恒河沙は珍しく少し気が咎めた。
――ふつう、もう少しねばらないか? そうすりゃぁ、おれだって……。
 そうは思っても、恒河沙は未だ嘗て自分から須臾以外の誰かに謝ったことが無かった。ついいつもの癖で突っぱねて後悔しても、どう言えば撤回できるのか判らずに、結局ふてくされるだけに終わる。
 思っている事全部が顔に出ている彼に、ソルティーは小さな笑みを浮かべた。
「恒河沙、向こうに着いたら俺がちゃんとリグスの言葉を教えてやるよ。俺も少しはお前の気持ちは判るから」
「なに、おっさんもきおくがなくなったことがあるとか?」
「いや、流石にそれは無いが、言葉が判らない不自由さは、俺も此処に着いた時に嫌と言うほど思い知った。昔が判らない辛さは、流石に理解してやる事は出来ないが、言葉で不自由させる事を少なくしてやる事は出来る」
 必要以上の干渉だと、言葉にした後で思う。
 だが、横で驚いている少年が、少し嬉しそうに見えるので、どうでも良くなった。
「大丈夫だよ。それに、環境が変われば言葉なんて自然と覚える」
「う…ん」
 意外な程にソルティーの言葉が抵抗なく、すんなりと入ってくる。
 今まで須臾以外の言葉に耳を傾ける気すらなかったのに、今自分の横で酒を飲む出会ったばかりの男の言葉が、須臾以上に自分を動かそうとしていて、それは全然不快ではなかった。
「……なぁ」
「ソルティーさん! なんか幕巌が話があるって呼んでる!」
 先程のテーブルから手を振る須臾の声に、恒河沙の言葉は掻き消された。
 振り向いたそこには、奥の部屋を指さし歩き出した幕巌がいる。
「話の途中悪いな」
 何故かは知らないが、また不機嫌な表情に戻ってしまった恒河沙に、形式上の詫びを入れ、成る可く幕巌を待たせないように指定された部屋に向かおうとした。
 が、それは恒河沙に腕を掴まれ中座に終わった。
「あの、さっきの紙、もらう、ことにする。その……、おっさ……ソルティー、さんが、おしえてくれるなら、いやだけど、べんきょーは大っきらいだけど、言葉、おぼえる」
 俯いた顔は見る事は出来ないが、耳や首筋まで真っ赤になったのを見ると、皮肉の一つも言葉にならない。
「一緒に頑張ろうな恒河沙。それと、さん付けは遠慮する」
「うん、わかった、ソルティー」
 洋紙を握らせ、素直に頷く姿に満足してソルティーはその場を立ち去った。
 残された恒河沙は大きく書かれた異文化の文字を眺め、洋紙の端に小さく書かれた長い文字を見つけ首を傾げた。
 二つの文字は明らかに違う形態で、それが何かなど恒河沙に解る筈もない。
 ソルティアス・ダ・エストリエ・リーリアナ・リーリアン。
 ソルティーの本名であり、既に読める者など居なくなった古い言葉だと恒河沙が知るのは、ずっと先の話になる。





 従業員用の扉のさらに奥にある幕巌の実務室に辿り着くまで、ソルティーは何故あの紙にあんな言葉を記してしまったのかを考えていた。
 恒河沙に対しての軽い悪戯か、それとも自分が此処に居る事の証明をどこかに残したかったのか。
 答えは後者しかあり得ないと気付く頃には、部屋の前にいた。


「適当に座ってくれ」
 言われるまま、テーブルを挟んで幕巌の前の椅子に座る。
 部屋の中には煙草の臭いが染み込み、部屋の主の人となりが伝わる整頓された空間だった。
「漸く話せる程度にはなった」
 そう言って、テーブルの上に何枚かの紙を取り出し、幕巌は一本の剣を傍らから取り出した。
「まずは、預かっていた物を返しておく。だが、それについてあんたが期待できる話は、申し訳ないが手に入れられなかった」
「判っている。もう半ば諦めていた事だ」
 渡された剣を帯剣し直し、言葉とは裏腹の息を吐き出した。
「だが、確かにその剣と同じ物が、この大陸にあった事だけは判った」
「本当か?!」
 思わず身を乗り出すほどの反応は、それだけ彼にとって剣が重要な意味を持つのだと知らしめてくれる。
 だが今の幕巌には、駆け引きをするつもりはない。この数日で繰り返したソルティーとの会話は楽しく、彼の恒河沙や須臾への態度も不服なかった。これ以上彼を試す事は、自分の誇りさえも傷付けると感じるほどだ。
「ああ、古い記録からだが可能性は高い。宝砂の武器商の記録に残っていたらしい。何処でどうやって手に入れたかは書かれていなかったが、誉められた入手経路じゃないのは間違いないな」
「知りたいのはその先だ。誰に売られた」