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茶房 クロッカス その3

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 俺は今の内にと思い、急いで京子ちゃんの傍まで行った。
「京子ちゃん、……もしかしたらそのつもりなのかぃ?」
 そう言って京子ちゃんの顔を覗き込んだ。
 京子ちゃんは、かすれた声で「えぇ」とだけ言い、その瞳は濡れていた。
 俺は、京子ちゃんがそう決めた以上、もう諦めるしかないんだと悟り、すぅーっとカウンターの中へ戻ると、カウンターの隅にいつも置いている白い木綿のハンカチを取り、そっと京子ちゃんの手に握らせた。
 その後、阿部さんがトイレから席に戻り、二人はまた話し始めた。と思っていたら、なぜか急に会話が途切れた。
《おや?》
 顔を上げて二人の方を見ると、真剣な表情で京子ちゃんが言った。
「阿部さん、お願いがあります」
「……?」
「――今晩、私を……抱いて下さい」
《お、おい、京子ちゃん! 本当にそんなこと言っていいのか? まだ京平のこと忘れられないんじゃないのか?》
 俺は、思わず口にしそうになった言葉を何とか飲み込み、阿部さんの顔を凝視した。彼が何と答えるのか……。

 恋人よ いまも素顔で くち紅も つけないままか  
 見間違うような スーツ着たぼくの 写真 写真を見てくれ
 いいえ 草にねころぶ あなたが好きだったの  
 でも 木枯らしのビル街 からだに気をつけてね  
 からだに気をつけてね

「えっ! 京子ちゃん。今言ったこと、まさか本気じゃないよねっ。僕をからかっているのかぃ?」
 さすがに驚いた様子で、彼は、彼女の顔を覗き込むようにしてそう聞いた。
 だが、その言葉とは裏腹に、彼女の言葉が本当であって欲しいと望んでいることは、そのキラキラ輝く瞳を見れば一目瞭然だった。
 俺は彼と同様に、息を呑んで京子ちゃんの口元を見つめた。
「私……、冗談でこんなこと言ったりなんかしません」
 少し俯いて、そう呟くように京子ちゃんが言った。
《あちゃーーー、やっぱり本気なんだぁー。あぁぁぁぁ、いいのかぁー?》
 俺は、一人心の中で頭を抱え込み、そして焦っていた。
「京子ちゃん、じゃあ本気なんだね?」
 そう言った阿部さんの唇は、嬉しそうにしっかり口角が上がっていた。
 京子ちゃんは下を向いて、ただ頷いている。

 曲は最後の辺りを歌っていた。

 恋人よ 君を忘れて 変わってく ぼくを許して  
 毎日愉快に 過ごす街角 ぼくは ぼくは帰れない  
 あなた 最後のわがまま 贈りものをねだるわ  
 ねえ 涙拭く木綿(もめん)の ハンカチーフください  
 ハンカチーフください

 そして、二人は支払いを済ませ、店を出て行った。
 ここを出て二人が行くのは、やはりホテルなのか……。
 彼の腕はしっかり京子ちゃんの背中に当てられ、決して離さないぞっと言っているように見えた。
 その夜、家に帰った俺は、京子ちゃんのことを思い、しばらく眠れなかった、。