君が袖振る
それから何事もなく何日かが過ぎ去った。
梅雨も明け、夏の日射しが眩しいある日のこと、龍太がそっと綾子に声を掛けてきた。
「なあ綾子、今、古文で、万葉集ってのを習ってるだろ、その紫野に一緒に行ってみないか?」
綾子はとにかくこれを聞いてびっくりした。
授業と言えば、綾子の隣の席で、寝てるか弁当を食べてるかのどちらかの龍太。学期が始まってから、そんな龍太しか見たことがない。
そんな龍太が万葉集と言う言葉を発するなんて、信じられない。
「だから町の子って、油断ならないのだわ」
綾子はそんなことを思った。
しかし綾子は嬉しかった。
綾子にとって、それは初デートになるかも知れない。胸は高鳴っている。
だが綾子は、そんな心の内を龍太に気付かれないように、もったい付けて承諾の言葉を返す。
「ふーんそうなの、龍太君、そんな所に行ってみたいの、仕方がないわね。忙しいけど、お付き合いしてあげるわ」
「ヤッター!」
それを聞いて、不良っぽい龍太が単純に喜んでいる。綾子はそんな龍太の振る舞いを見て、「この人、ひょっとしたら馬鹿かも」とも思ったが、可愛いとも思った。
こうして二人は、次の日曜日に紫野を訪ねることとなった。
万葉集に歌われている紫野、それは滋賀県八日市市西部に広がる蒲生野。
漢方にもなる多年草・ムラサキが群生していた野だ。
七世紀の頃は、まさにムラサキが白い小花を一杯に咲かせ、どこまでも広がる草原だったのだろう。
しかし、今は別段特別な所ではない。