君が袖振る
ここまでで、二人の会話は止まってしまった。
綾子は終わり掛けの授業を聞き逃すまいと、より一層の真剣な眼差しとなり授業に聞き入っている。そんな隣で、龍太は食べ終えた弁当箱の片付けをしているのだった。
そんな珍奇さが日常化している高校二年生の授業風景。綾子にはそれが新鮮で、また居心地も良かった。
しかし、その珍奇さ以上のことは何も起こらず、時は穏やかに流れて行った。
そして、それは梅雨時。龍太が朝教室に入って来た。
眠気の残る目を擦りながら綾子の隣の席にどさどさと座る。
既に席に着いている綾子は、いつものように「おはよう」と龍太に声を掛ける。龍太がいつもの通りに、「お」と「う」が聞こえてこない小さな声で、「うん、はよ」と返す。そして暫くしてから、龍太が横で「うっ」と唸っているのを綾子は聞いた。
どうも龍太は、前方の教壇の方を見て、机の上に溢れるばかりに飾られてある青い紫陽花に気が付いたようだ。
特に花なんかには興味を持っていない龍太。しかし、これには驚いた様子だ。
綾子は何知らぬ顔で、びっくりしている龍太の横でツンと澄ましている。龍太がそんな綾子に、それとはなしに聞いた。
「ねえ、あれ・・・・・・綾子が?」
綾子はそんな龍太の問いに対し、前を見ながらコクリと頷き、そして一言小さな声で可愛く答える。
「私・・・・・・楽しいの」
多分これが、未だ乙女の綾子が放った精一杯の女の殺し文句だったのかも知れない。
その短い一言の返事に、「ずっと龍太君の隣にいたいのよ」というメッセージが滲み出ていた。
そして龍太は、こんな綾子の作戦に見事に落とされてしまったのだ。この瞬間に、龍太は綾子に『イチコロ』。
綾子は、こうしてまずは龍太の心を捕まえてしまったのだった。