君が袖振る
茜色に染まった紫草(多年草ムラサキ)の生える野を、薬猟の場の標(しめ)が張られた野を行きながら。
野守(野の番人:暗に、現夫の天智天皇を指す)が見てますよ、あなたが私に向かって袖を振っておられるのを。
そんなに振れば、見つかりますよ。
だけど、嬉しいわ。
こんな額田王(ぬかたのおおきみ)に対し、元夫の大海人皇子(おおあまのみこ)は答歌した。
紫の にほへる妹(いも)を 憎くあらば 人妻故に 吾(われ)恋(こ)ひめやも
紫草の色のように麗しく美しいあなたが、もし嫌いであるのなら、今はもう人妻のあなたに、なんで私が恋などしましようか。
あなたに、ずっと恋しています。
龍介は、投稿小説の「君が袖振る」の文字を見て、条件反射的に額田王の短歌のことをぼやっと思い出した。
しかし、それはありきたりなインスピレーション。龍介はそんな思考よりも、もっと驚愕したのだ。
それは作家名。その『紫野』と名乗る二文字にだ。
龍介は画面を見入りながら、冷え始めたコーヒーを一口ごくりと飲んだ。
「紫野か、そう言えば、確かあの時、綾乃は自分の夢は作家になることと言い、ペンネームは何が良いかと聞いてきたよなあ・・・・・・それで、紫野はどうかなと俺が言ったら、じゃあ龍介君の好きな紫野にするわ、確か、そう言ってたよなあ」
随分と昔のことだ。だが龍介には、綾乃との出来事が懐かしく思い出されてくる。そして右手で無意識のままマウスを動かしながら、はっと気付くのだった。
「ということは・・・・・・綾乃がこの小説を書いて、投稿したということなのか?」
龍介は急に興味が湧いてきた。