大切な人 後編
「お前を悲しませたくないから、そう言うんだ。もう逢いたくても逢えなくなるかも知れないし」
「意味が解らないわ・・・どうしてそんな事を言うの?」
「すまん・・・癌なんだ。進行している。治療しても死ぬかも知れないって・・・でもやるだけの事はするし頑張るつもりだ。言いたくなかったけど
今なら忘れられると思って別れようって言ったんだ」
靖子は身体が震えた。わなわなとひざが震えて立っていられなくなってしまった。
座り込んで受話器を震える手で握り締めて泣くことも出来なかった。
「大丈夫か?靖子・・・靖子!返事してくれ」
「雄介・・・さん・・・いや、いや、いやだ〜・・・」
「だから言いたくなかったんだ。落ち着きなさい。病人は俺のほうだぞ。キミがそんなふうになってどうするんだ。しっかりしてくれ」
「どうすればいいの?私はどうすれば・・・」
「よく聞きなさい。落ち着いて家族に知られないようにしろよ。美幸さんには話して解ってもらってもいいけど、まずは自分がしっかりするんだ。
見舞いは来なくていい。妻が毎日世話しに来るから。会いたくないだろう?」
「待っているだけね。電話は?私直ぐに携帯買ってくる。メールなら気付かれないでしょ?構わないかしら?」
「メールか・・・病院だから電源は切っておかないといけないんだ」
「何も出来ないって言うこと?するなって言うこと?」
「すまないがそっとしておいて欲しいんだ。正直こうして話している間にも自分が死ぬかも知れないって考えただけで
もう何もしたいと思えなくなるんだよ。今は何もしたくないし出来ない・・・悪く思わないでくれ」
「悪くなんか思ってないよ。あなたが無事退院出来るように祈っているから・・・毎日毎晩神に祈っているから・・・元気で仕事が
出来るようになったら、また私と逢って。それまで待っているから。それぐらいは・・・構わないでしょう?15回しか逢わなかったけど
気持ちはもう何百回も逢っているようなものだから。死なないで!絶対に助かるから・・・お願い、死なないって約束して!」
「靖子・・・何もしてやれなかったな。もし元気で社会復帰が出来たら真っ先にお前のところに行くよ。誰にも遠慮せずに玄関から
入って、お前を奪いに行く・・・一緒に暮らそう。離婚できなくてもいい。傍にずっといてくれ」
「雄介さん!・・・嬉しい・・・絶対よ!絶対だからね!」
電話はもう持ってはいられなくなった。その場に靖子は泣き崩れてしまった。
「お母さん!どうしたの?気分でも悪いの」
娘の美幸が座り込んでいる靖子を見つけて寄ってきた。
「大丈夫よ・・・」
「泣いているの!どうして!お母さん!何があったの、話して」
「言えないの・・・ゴメン」
「私はどんな時もお母さんの味方よ。何を聞いても驚かないから・・・ね、話して」
「美幸・・・ありがとう。部屋に来て頂戴」
「うん、着いてゆくから」
涙で腫れあがった顔を丁寧に化粧で直してベッドに腰掛けて娘の美幸に全てを話した。抱かれたことまでは言わなかったが、
仲良く交際しているとまでは話した。多分娘も大人だから全てを感じてしまったであろう。
「そうだったの。辛いわねお母さん。祈るしかないよね。家の事は少し私がするからお母さんは気持ちが休まるまでゆっくりとしてていいよ」
「そうさせてもらうわ。あなたに話してよかった。自分ひとりで抱え込んでしまったら気持ちが変になるところだったから」
「素敵な方なのね、庄司さんって。お母さんが好きになるなんて」
「美幸・・・そんなこと言うのはやめて、ここは家の中だから」
「お父さん居ないから大丈夫だよ」
「ううん、せめてけじめはつけたいの。解って」
「はい、じゃあご飯の支度してくるから横になって楽にしてて」
「助かるわ。ありがとう」
きっと一人で考え込んでいたら今頃どうなっていただろうか。持つべきものは娘だと嬉しかった。
数日が過ぎて気持ちが楽になってきた時に、娘に同行してもらって携帯電話ショップに行った。雄介が持っていた機種と同じモデルの
ピンク色を選んで契約した。財布にメモしてあった雄介の番号を最初に入力した。次は娘の番号、そして自宅の番号、夫の番号は
電話帳にメモしてあったので・・・そのままにした。掛かってくることなど無いだろうと思ったからだ。出来るようで操作は面倒だった。
漢字変換に手間取るのだ。パソコンも触ったことが無かったから尚更に感じていた。
靖子には5歳上の姉がいた。近所で暮らしていたが一人息子の孫の世話で忙しくなかなか会うことは無かった。その姉から電話がかかってきた。
「靖子、元気?久しぶりね」
「お姉さん!はい、元気ですよ。どうしたの?」
「久しぶりにカラオケにでも行かない?」
靖子はずっと家に閉じこもっていたから姉からの電話は嬉しかった。直ぐに「行く」と返事して車で迎えに行った。
姉はカラオケ好きでいろんな場所を知っていた。
「靖子、橋を渡った向こう側にあるところに行きたいの。連れて行ってくれる?」
「いいよ、場所教えてね」
「駅前に架かっている大きな橋を渡って下りた道を左に曲がり少し走ったところに姉の行きたかったカラオケ喫茶はあった。デニーズを
通り過ぎた靖子は想い出の場所を横目で見ながら複雑な気持ちでいた。去年のあの雨の日、声を掛けてくれた雄介が今は病気と
戦っている。カラオケで気分を晴らすのはストレスの解消にはなるだろうが、苦しんでいる彼の気持ちを考えると・・・辛い。
「靖子、どうしたの?いつものように歌わないの?」
「ゴメンなさい・・・この頃ちょっと気分が良くなくて・・・」
「そう・・・ひょっとして更年期になったの?」
「えっ?・・・そうなのかな」
「あやふやなのね。婦人科で一度診てもらったら?」
「そこまでは・・・まだだと思うから」
「あなたの家には美幸ちゃんがいるから頼りになるわね。家は嫁だから気を遣ってしまう。孫の世話だって大変なのよ、男の子だから」
「いいじゃないの。可愛いでしょう?今時同居してくれるなんてなかなか無いのよ。それだけでも幸せって思わなきゃ」
「あなたはそうじゃないからそんな事が言えるのよ。夫と二人だけって言うのも辛いけど、他人がいるって言うことも気を遣うのよ」
「旦那さん優しい人だからいいじゃない、まだ」
「優しいんじゃないの。無口なだけ。干渉しないことは助かるけど、なんかイヤなのよ」
「贅沢を言うのね。家なんか干渉はするし、束縛もするし、門限だってある。亭主関白なんだから」
「でも、俊一さんいい会社に勤めていたし、今だってバリバリ仕事されているんでしょう?羨ましいわよ。夫なんて家でごろごろしている
だけなんだから」
靖子の夫は武田俊一と言った。一流企業と呼ばれている会社に勤務して今は取引先の仲間と別会社で新しい仕事に取り組んでいた。年齢は
靖子より3歳上の54歳に今年なっていた。
「お姉さん、傍目にはそう見えるのよ。仕事が中心の夫は結局自分中心なのよ。私が自由にすることには反対なの」
「それはある意味仕方ないわよ。お給料で生活しているんだから。自分で仕事見つけて家庭をやってゆくなんて靖子のような
お嬢さん育ちじゃ出来ないのよ」