映画レビュー
フランク・キャプラ『群衆』
事実→事実→事実、といった具合にものごとは因果的に接続されている。だが、この因果的接続は単純に無色のものではない。石を蹴ったら転がった、そういう因果接続は確かにだれにとってもどうでもいいかもしれない。だが、例えば自分の発言が予想外の人に深く感銘を与えたらどうだろうか。そこでは、自分の発言→他人の感銘、という因果接続に、「予測不可能」だったとか、「好ましい」とか、そういう評価が発生する。つまり、自分がかかわっている因果接続については、人間は何らかの評価をしているのであり、因果接続は無色ではなく予測可能性や好ましさなどの属性を帯びている。
ジョン・ドゥーは、始めは自らの発言に無関心だった。それはただ他人から与えられた原稿を読むだけのもので、そのことによって自分の生活が保証されるだけのことだった。だが、それが社会的に影響力を持ち始め、多くの人の共感と覚醒を呼び起こした。ジョンにとって発言とその影響との因果接続は、予想外のものであり、また結果が重大であるためそれに対して責任を負わなければならないものであった。ジョンは、そのような因果接続への評価を介して、自ら変貌していく。積極的に公演を行い、その作り上げられたキャラクターに同化していく。
つまり、人間のかかわる因果接続は、単純な事実→事実→事実、といったものではなく、その因果接続の評価を介して複雑に発展していくものである。自分の発言→社会への影響→その因果関係に対するジョーの評価→ジョーの内面や行動の変化、この映画ではそのような因果関係が描かれている。
物理的世界を規律する単純で無色な因果関係とは異なり、人間のかかわる因果関係は、先行する因果関係への評価を通じて、その人間の素質などをもとに、その人間の行動を複雑に導いていく。単純に事実のみが連鎖するのではなく、評価という価値的なものが間に挟まり、それが因果経過を柔軟に導いていくという意味で、人間のかかわる因果関係は面白い。