映画レビュー
スタンリー・キューブリック『時計じかけのオレンジ』
クラシック映画の多くが、負の価値から正の価値へという筋の展開により、カタルシスによる美を生み出している。ところが、この映画ではそのような筋の展開が否定されている。負の価値は負の価値のまま矯正されることがなく、それゆえ、この映画は「美」という概念で一元的に語られることを拒絶しているのである。
アレックスは政治に利用される。その政治のいやらしさというものが、最後まで除去されない。クラシック映画だったら、たとえばフランク・キャプラの「群衆」のように、「政治に利用されるのなんてまっぴらだ。お前らの好きにはさせない」という態度が登場人物によって示され、政治的ないやらしさが最終的には除去される。それに対し、アレックスは政治に利用されることを逆に快諾しているのである。
また、アレックスは最初から最後まで悪人のままである。洗脳は彼の生理をコントロールしただけで彼の精神まではコントロールできなかった。その洗脳も最後には解けてしまうのである。
政治が排撃される、悪人が善人に更生する、そのような古典的な筋の展開による一元的なカタルシス美の創造、それをこの映画は拒絶している。そこで映画を語るべき概念の相対性が明らかになる。もはやカタルシス美は映画を語る特権的な概念ではなくなった。観る者は、それまでよりも多く、「美」以外の概念によって映画を語らなければならなくなる。結局悪は除去できないという人間哲学的なコンセプトや、刑事制裁制度の在り方への問題提起、人間の生理と心理の複雑な関係、そういう観点からこの映画を語らなければならなくなる。