映画レビュー
ヴィットリオ・デ・シーカ『自転車泥棒』
映画とは、鑑賞者とカメラとの共犯関係によって成り立つ禁忌違反であることを示す映画。
主人公は、自転車を盗まれるが、その自転車は彼の仕事になくてはならないものだった。彼の生活は自転車の存在にかかっていた。自転車がなければ彼はせっかく得た職を失う。そこで主人公は自転車を探し回るが結局見つからない。そこで意を決して自転車を盗もうとするが失敗するのだ。
この映画の感銘のほとんどは、主人公が自転車を盗むシーンから与えられる。その感銘は、主人公の思い切った行動を起こすことの緊張、また犯罪者へと身を落とすことの自尊心喪失と安楽、そして何よりも、我々の目撃してはならないものを目撃してしまったことの後ろめたさと好奇心、からくる。
主人公にとって、犯罪の現場は最も見られたくないものである。主人公は犯罪の現場を見られない権利がある。高度なプライヴァシーがそこにはある。そのプライヴァシーを、カメラは冷然と写していて、我々もまたそれを見てしまう。禁忌を犯しているのは主人公ではない。我々なのだ。我々が、カメラと共犯関係を結ぶことで、主人公のプライヴァシーの権利を堂々と侵害しているのである。
「見る」という行為自体が、そもそも世界の禁忌を犯している。世界は見られたくないというプライヴァシーの権利を持っている。そのことに気付きながらも、その禁忌を犯すことに耐えながら、我々は生き続けそして見続けていかなければならない。