映画レビュー
ジム・ジャームッシュ『コーヒー&シガレッツ』
この作品は、映画であるからこそ、人間の対話がいかに孤独に満ちたものであるかを示している。孤独というものは、充満しているものである。孤独は決して空虚なものではない。例えば音声のみの対話があったとしよう。そこで沈黙は何も意味しない。沈黙は孤独すら意味しない。だが映画であれば、対話と沈黙を絶えず満たすものがある。それは周りの装置であったりコーヒーだったり煙草だったり、登場人物の動作や表情だったりする。これら空間的・視覚的充満が、孤独を充満させるのである。そして、孤独の象徴こそが、コーヒーであり煙草であるのだ。空間的・視覚的充満があるからこそ、そこに回収されない人間存在の本質が欠落として浮かび上がり、その欠落こそが孤独であるのだ。
登場人物の対話は、否定に否定を重ねさらにそこに否定を重ねるという、加害と被害に満ちた行為だ。そして、対話による傷を、互いが映像から欠落したそれぞれの本質へと幾重にも抱え込み、どんどん孤独が増長していく。対話とは互いを否定することにより互いの孤独を増していくという痛みに満ちた行為である。例えばある編では、片方がもう片方を電話で呼び出した設定になっている。だが、呼び出した方は「万事順調だ」と繰り返すのに対し、親友である呼び出された方は、何かの相談事だと思い、絶えず「本当に大丈夫か」とたずねかける。呼び出した方は、相手の気遣いを繰り返し否定し、呼び出された方は相手の言葉の真実性を繰り返し否定する。
このように、人間は対話することによりお互いを繰り返し否定し続け、傷を負い孤独を増しながらも、なおも対話の存在そのものによってお互いの孤独を維持可能なものとする。世界からの欠落としての孤独は、対話の内容ではなく、ただ対話が存在するというそのことによって、強固なものとなる。コーヒーと煙草は、世界の充満としてそこから欠落する孤独を指し示すと同時に、対話の媒介となることでその孤独を強固なものとし、人間の、否定に対する反射的な防御力を強める。