映画レビュー
小津安二郎『一人息子』
人生は創作される。現実の人生は生きられるが、望ましい人生や予測された人生はせいぜい創作されるに過ぎない。だが、この創作が法則的抽象性にとどまっているか、それともテクスト的なある程度の具体性を伴っているかによって、現実に生きられた人生の評価が変わってくる。この映画で母親は子供の出世のために身を捧げる。母親は子供の人生について法則的な創作を行っていて、学校を出れば間違いなく出世すると思い込んでいる。それに対して子供はより良い地位のために努力を重ねながらも常に現実と向き合い、テクスト的な具体的希望を抱くに過ぎない。そして不可避の人生は、苦い現実を突きつけるのである。
その現実を前にしたとき、人生の創作をどのように行っていたかによってとる態度が異なってくる。母親は子供の人生を抽象的で楽観的にしか創作しておらず、ディテールの創作が皆無である。それに対して現実に生きている子供の方では、人生をテクスト的に創作するから常に現実との照らし合わせがあり、それとともにディテールの部分のつながりを大量に獲得する。子供は夜学の先生に過ぎないが、妻を持ち子を持ち、近所付き合いも良く、近所の子供が負傷したときも親身になって手伝う。子供は抽象的な夢を叶えることはできなくても、具体的なディテールを詳細に満たすことができ、そこで培った現実的で豊かな人との交わりを持っている。
だから母親は初め失望するが、子供が現実のディテールを豊かに持っていることに出世とは別の価値を見出し、納得して帰っていくのである。母親と子供とでは人生の創作の仕方が異なっていた。それは、母親はもっぱら希望を託す側であり、子供は現実に生きる側であることにより生じる非対称性である。その非対称性ゆえ母親の失望が生じるが、母親もまた抽象的な創作をやめ現実のディテールに気づくことで、この非対称性は解消されるのである。