映画レビュー
小津安二郎『晩春』
この映画は、日本人の心と言葉というものが直結していず、日本人においては、言葉に対して心が直接反応したり、心を言葉が直接表したりというアメリカ映画的な心と言葉の関係が成立していないことを示している。それゆえ、心は言葉からある程度自由な動きをするし、言葉も心に対してある程度自由な動きをする。その微妙なニュアンスを小津は巧妙に描き出す。
この映画において、例えば父親は娘に対して、「幸せになるんだよ、いいね」と何度も同じ言葉を繰り返したりする。これは、第一に、娘がその言葉に対して直接的な反応を示さず、その言葉を受容するのを阻害する複雑な気持ちを抱いているから、同じ言葉でも何度も言う必要があるからである。だがそれだけではなく、言葉を発する父親自身も、どうも自分の言葉というものが自分の言葉であるという確信がそれほど持てていないからでもある。日本人は嘘をつく。心と違ったことを言うことになれている。だから、自分の言葉が自分の心に対応していることを確認するために、言葉を発する側としても同じことを繰り返す必要があるのだ。
だから、日本映画においては、アメリカ映画的な、発話者の心からそのまま言葉が発され、それが受け手にそのまま受容され受け手がそのまま反応する、という極めて因果的なコミュニケーションが成り立たないのだ。まず、発話者の心が自由で複雑な動きをし、また発話者から発される言葉も、相手の気持ちや雰囲気に配慮した自由な動きをする。よって、発話者の言葉とその言葉はずれていることが多い。そして、発話者の言葉も受け手にそのまま受容されない。受け手は受容を阻害するような自由な心の動きをすると同時に、発話者の真意を読もうとするため言葉をありのまま受け取ろうとしない。
日本人のこの複雑なコミュニケーションを小津は丁寧に描いている。そこにおいては、心と言葉というものは直結せず、心と言葉が相互にある程度独立して自由な動きとニュアンスを見せるのである。