映画レビュー
ゴダール『ゴダールの決別』
「映像と物語を超えていた」というセリフが出てくるが、これこそがまさにこの映画が為そうとしていたことだと思う。一応ストーリーはある。だが、その物語を絶えず分断する映像や声が無尽に現れて、物語を解体してしまう。この映画は物語というよりは箴言集のようなものだ。沢山の思想がほぼ無関係に織り込まれてくる。だがそれだけではなく、登場人物一人一人がそれぞれの声を持つし、映像もまた全体的に声・イデオロギーのようなものを形成する。映像の主体と思われる者が様々な思想を映像と無関係に語り、映像に干渉していく。そこには、撮る者が撮られる者を支配するという権力の関係が見られる。一方で、撮られるもの同士は会話し、交渉する。そこには対等な者同士の力のゲームがある。人間ではない自然などの映像もまた、それぞれの声を持ち、何かを主張している。自然や建物は力を行使しない。
この映画は映像のモンタージュではなく、いわば声のモンタージュを作り上げているのだ。声は様々な次元・種類のものが登場する。それは映像の主体の声でもあり、メインの登場人物である夫婦の声でもあり、端役たちの声でもあり、自然や建物の声でもあり、挿入される字幕の声でもある。それらが、映像や物語を超えたところでモンタージュされ、声の箴言集を作り出す。そこには力のネットワークと意味の交錯と、物語への意欲と物語らないことへの意欲、そういうものが複雑な集合を作り出しており、それは、一つ一つの声を音符として編曲してできた音楽のようだ。この映画は音楽のように純粋で意味を持たない。語られる思想の内容は重要ではなく、それがひとつの音としてうまく響くことの方が重要だ。全ての声は音としての響き方を試しているのだ。