映画レビュー
フランシス・フォード・コッポラ『ゴッドファザー』
この映画を観ているときに感じる、切迫したり寛解したりしながらも、なおも持続する鋭利な衝撃の根拠はいったい何なのだろうと考えていた。それはやはり、常に持続し、マッチのように少しの摩擦さえあればすぐに発火しそうな、主人公たちの意志の緊迫なのだと思う。
この意志は、単純に人を殺すという、規範に反する暴力的意志だけではない。抗争相手の動向を探り、身内が狙われないように配慮し、ファミリーの存続と繁栄を常に気遣うことに耐える、そういう意志であり、また、人を殺した後も、その罪責感や良心の呵責、そういうものに対抗する意志である。
この意志による衝撃が最も強く感じられるのが、マイケルが初めて人を殺すシーンである。トイレに隠された銃を取りに席を立つことを告げるときの意志の緊張、そして銃を見つけ殺す決意をするときの意志の緊張、そして規範障害を乗り越え思いきって人を殺してしまうときの葛藤に耐える意志。
この映画の素晴らしさは、そのような意志の持続をあくまで人間の真実として描き、Vシネのように戯画化しないところである。Vシネに登場するヤクザは初めから悪事を働くのが当然のキャラである。だが、ドンの座を引き継ぐマイケルは、もともと大学出の堅気の人間であり、それがどんどんファミリーの繁栄のために意志の緊迫を持続させる人間に変貌していく。その変貌に、一種の教養小説的な成長のモチーフ、自我形成のモチーフが組み込まれている。彼もまた、マフィアの抗争と言う周囲の環境に適応すべく自己を克服し成長していくのである。普通の人間とは方向性が違うが、ここには明らかに人類普遍の自我形成のモチーフがある。