映画レビュー
ポール・トーマス・アンダーソン『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』
映画の進展は、偶然の出来事によって人間が翻弄されることのみで進んでいくのではない。受動的な人間を描く映画は数多く存在するが、この映画は反対に、自ら能動的に交渉し困難を乗り越えていく人間を描いている。冒頭、主人公がツルハシで金を掘る行為がこの映画の基本的な原理を象徴していると言ってもいい。現実は硬くて抵抗してくるものであり。だが、その現実とやり合い、交渉し、懐柔し、打ち勝っていくということ。主人公の人生はその縦の方向性に主に向かっている。
油井を掘って儲けていく、それは地面を掘る作業であるし、地主との交渉でもある。そのような抵抗を克服し、上へ上へと上昇していく、それがこの映画で目立つ原理である。だが、抵抗の克服は更に新たなる事態を生み出すし、必ずしも利益だけを生み出すとは限らない。実際主人公の息子は事故がもとで聴力を失うのである。そして、主人公と息子との関係は縦の関係では済まされない。そこには愛情という横の関係が強く働いている。主人公は経済的に成功していこうとする理屈だけの戦いなら得意だ。だが、聴力を失った息子との関係は感情の関係であり、また聴力は決して戻らない。そこには本質的な停滞がある。確かに息子は手話を習得し結婚するが、結局は主人公と絶縁してしまう。横の関係において主人公は全く無力で、取り囲んでくる抵抗に押しつぶされるだけなのだ。この、縦の原理における進展と横の原理における停滞、これが能動的でありながら一方では能動性が成就され他方では能動性が成就されないという映画の幅の大きさを生み出している。
もうひとつ面白いのが信仰との関係である。主人公は信仰を持たないが、信仰こそがまさに縦の進展の基礎になるものではないのか。実際、伝道師は信仰をもとに内面的な成功をなし遂げていく。経済的にはうまく行かなくとも、伝道師は経済とは別の次元で、人々を説得し神のもとへと導いていくのだ。主人公と伝道師は対立し合い、最終的には伝道師を殺すところで映画は終る。これは、同じく能動的で縦への方向性を持つもの同士の熾烈な争いであるだろう。最終的には主人公は信仰に負けたのだと思う。伝道師を殺さねばならぬ程、信仰への憎しみが強かったのだから。主人公は半ば信仰を持ちつつも息子の聴力が戻らなかった。これはこの映画で最大の停滞である。息子の聴力の喪失は伝道師に責任が着せられ、主人公は神を恨み続ける。主人公はその憎しみに敗北したのである。このように、この映画には能動的な人間の戦いと挫折が劇的に描かれていて、運命を自ら作り出していく人間、一方でそれでも運命を変えられない人間が見事に描かれている。