映画レビュー
タル・ベーラ『ニーチェの馬』
この映画では長回しが多用される。カメラはカットされることなく、親子や馬を様々な角度と距離から動きながら捉えるのである。ここまで登場人物に寄り添い、また一つの視点が固定されると、そこには登場人物とは別の「カメラの人格」が生まれているかのようである。登場人物の人格は「人間の人格」かもしれない。だが、カメラの人格はもっぱら視覚において優れていて、それでありながら映像を編んでいくことにより映像を語り続けるのである。
カメラの人格は登場人物と決して視線を交えることがない。なぜならカメラの人格は登場人物の世界には不在だからだ。だが、カメラの人格は、カメラの世界からすると登場人物に寄り添ったところに常に存在している。それはもう一人の登場人物なのだ。そしてたまにカメラの人格が話すときもある。だが、その話す内容は描写的であり、映像と変わるところはない。
カメラの人格は執拗に親子の生活を細大漏らさずとらえ続ける。食事のシーンや着替えのシーンは繰り返され、また静止したシーンも長く撮りつづける。そこでもたらされるのは、映像の堆積である。親子の生活はどんどん厚みと重みを増していき、その中に親子が語らなかった心の動きや、鑑賞者が受け止めるメッセージなどが込められていくのである。
この映画には取り立てた筋の展開はないが、それであるからこそ生活の場面が一つ一つ新鮮であり、新しい生活の局面が映し出される度にそれだけで何か映画が進展したかのように思われる。多くの映画が細部を省略し、どんどん出来事を積み重ねていくのに対して、この映画は細部を沢山描き、その細部が少しずつ更新されることが拡大されることで映像の進展を生んでいるのだ。それが十分楽しめるのは、長回しの多用によって観るものがカメラの人格というもう一人の登場人物と一体化することにより、親子の生活のテクストの層が厚く積み重ねられていく重みを十分体感できるからだ。