映画レビュー
クラウディア・リョサ『悲しみのミルク』
映画は瞬時に消えていき、同時に次々と発展していく芸術ジャンルである。だから、何かを残したい、強く主張したいというときには、何らかの方法で、その消えていく傾向に対抗しなければならない。映画は歴史ではない。だが映画を歴史にまで高めることは可能だ。この作品で、映画の刹那的な傾向に対抗する手法として用いられているのは、(1)ヒロインと母親の対話を歌にする(2)同じテーマを繰り返す(3)儀式化する、などである。
ヒロインの母親は、テロの時代にレイプされた傷を負ったまま死んでいく。ヒロインはその傷を継承する。その傷を永続化するため、ヒロインは母親の体験と母親との対話を歌にする。歌は残るものである。また、ヒロインが鼻血をだす/卒倒する場面も、ヒロインの傷の繰り返しとして意味を持つし、母親の死体が何度も映像に表れるのも、傷を永続化する役割を果している。また、各種の象徴作用も繰り返しと同様の機能を果たしている。ヒロインが働いている屋敷での、アニメで偶然映ったミルクを飲むシーンとケチャップをかけるシーン。ミルクを飲むシーンはヒロインが母親から授乳されると同時に傷を継承したことを象徴するし、ケチャップはヒロインの鼻血を出す病気を象徴する。壊れたピアノを前にして男が言う「壊れたピアノが歌い続ける」というせりふはヒロインそのものを指しているし、鉢植えの花の土を取り換えなければならないと男が言うシーンも、ヒロインの再生を暗示している。一方、繰り返される婚礼のシーンは、婚礼という儀式による祝祭の永続化ととらえることができる。
歌や儀式、象徴により、映画の扱うテーマを刹那的なものにせず永続化していくという手続きが、この映画では顕著にみられる。それは映画を歴史として、語り継がれるものとして昇華していくプロセスである。そしてヒロインは最終的には母親を埋葬することができ、傷から解放されて未来へと向かって行くので、その未来の安定性を担保する機能も果たしている。母親を埋葬しに行く途中、ヒロインが母親を生みの前へ連れて行き「海に来たよ」と歌うシーンは、この映画が安定した未来へと投げかけられたものだということを表しているだろう。