映画レビュー
アスガル・ファルハーディー『別離』
この映画は法をめぐる映画である。もっと柔軟にルールを描く映画だと言ってもいい。そして、法は決して固定的でもない。法の下に裁く側と裁かれる側は絶えず交替し、それがこの映画の複雑性の進展を生み出している。この映画では、日常生活を生きる上で必要な行為から、裁判で互いに主張し合う行為に至るまで、その手続きが非常に細かく描かれている。この手続きを経るということは結局そこで設定されている法に合致していこうとすることに他ならない。例えば、要介護の主人公の父親は「介護すべき」というルールを作り出す。主人公たちはそのルールに従うために、介護の細かい手続きを順守するのである。その手続きを順守しない人間は、ルール違反となり裁かれる立場になる。
さて、そうして介護を請け負った女性は主人公に突き飛ばされることで流産したと主張する。これで主人公は他人を傷つけてはならないという法に違反したことになり、その違法でないことを延々と法廷で主張することを余儀なくされるのだ。だが、主人公からすれば、父親の介護を不十分にしかやらなかった女性こそ法の前に裁かれるべきであり、立場は錯綜してくる。今度は女性の方が違法でないための弁明の手続きをしなければならなくなる。つまり、この映画は法の前に裁かれる立場にありながら、それでも法を遵守していたことを手続的に証明していく人々を描いているのである。
ところで、映画にもまた法があるのではないだろうか。実際この映画は、出だしから徐々に複雑性と感情性を増していき、遂には真実が暴かれ、最終的には本来の問題であった親権の所在を子どもが決定するところまで進んでいく。伏線を巡らせながらテンションを上げていきクライマックスに達するその技法は映画の王道であり、映画の法に合致しているともいえる。だがそれだけではない。この映画は自らを法として、自らを一つの規範として映画の法を新たに作り上げるものではないだろうか。ちょうど登場人物たちが単に裁かれるだけではなく自らを法として自ら裁いていくのと同様に。つまり、法をめぐる裁き裁かれる立場の錯綜という、一つの映画の法の定立を主張しているのではないだろうか。