映画レビュー
ミハイル・カラトーゾフ『鶴は翔んでゆく』
悲劇とは欲求や希望の挫折のことである。欲求や希望が強ければ強いほど、また挫折が痛烈であればある程、悲劇は悲劇的になる。この映画では、戦争により恋人同士が引き裂かれる。そしてヒロインであるヴェロニカの恋人は、戦死するのである。
ところが、本来なら「恋人が戦死する」と一言で語り尽くせそうな悲劇も、この映画では数段階を経て現れてくる。そして、それぞれの段階でそれぞれの悲劇性を帯びる。まず恋人が出征する。そこでの別れの悲劇。恋人が銃で撃たれる。死の蓋然性の悲劇。望まない相手と結婚する。望まない関係を強いられる悲劇。恋人から手紙が届かない。恋人が戦死したと告げられる。そして、最後に、恋人の戦死が確定的になる。
このように、本質的には一つの出来事であっても、それを数段階に分散させることにより、悲劇の様々な相貌を丹念に描くということ。この映画の良さはそこにある。さらに、悲劇に巻き込まれた人々にもまたそれぞれの悲しみがある。一つの悲劇と言うものは、時間的にも空間的にも広がりを持ち、様々な段階を経て、様々な人を巻き込みながら展開していくのである。