映画レビュー
オーソン・ウェルズ『市民ケーン』
謎が、より深い謎を呼び込む映画。この映画は、富豪であるケーンが遺した「バラのつぼみ」という言葉が何を意味するかという謎を、新聞記者が追求するという構成になっている。この構成は、鑑賞者に、謎に立ち向かう姿勢を持たせる。そのような心構えでこの映画を観ていると、この映画には、そのような表面的な謎だけではなく、もっと根深い謎が隠されていることが分かってくる。
「バラのつぼみ」が何を表すかは明らかに不可解なことだ。だが、この映画にはもっと不可解なことがたくさん隠されてあり、「バラのつぼみ」という言葉はその一端・氷山の一角に過ぎないことが分かる。その不可解なこと、つまり謎とは、まずはケーンの心理である。ケーンはなぜ新聞業に興味を持ったのか。なぜ弱者を救おうとしたのか。なぜ証拠があいまいでも記事にしようとしたのか。なぜスーザンに無理やり歌手をやらせ続けたのか。なぜ知事選に立候補したのか。
さらに、私の「謎を追及する傾向」は加速して、より外側のものまで取り込んでいく。オーソン・ウェルズはなぜこのようなプロットで映画を作ったのか。そもそもなぜこのような内容の映画を作ろうとしたのか。そもそも映画監督になろうとしたのはなぜか。
これらの謎は結局よく分からない。それと好対照を成すのが、スーザンのジグソーパズルだ。ケーンの二度目の妻スーザンは、暇つぶしのために次から次へとジグソーパズルを完成させていく。まるで謎が解けずに苦しんでいる鑑賞者をあざ笑うかのように。