音楽レビュー
fugazi『in on THE KiLL TAKER』
fugaziはパンクの精神を内向的に突き詰め、パンクの、政治と音楽をつなぐやり方をより洗練された形で提示した。歌詞の世界観は、脊髄反射的な社会への憎しみではなく、そのような社会への憎しみを生み出す土壌としての人間存在、人間存在の扱う種々の概念の在り方、そういうものに重点が置かれている。彼らがハードコアであるのは、何よりもパンクを可能とした人間の反動精神や懐疑精神をより突き詰めてとらえているからであり、パンクのスピリットを「哲学的」に捉え直したといってよい。パンクの反動を可能にした、人間の根源的な焦慮、隠されてはいるが厳然として存在し続ける人間の恒常的危機、そういうものを詩的言語で真っ向からとらえ、さらにそれをキナ臭くテクニカルなメロディーとリズムに乗せていくということ。
ハードコアとしてのfugaziは、大元のパンクよりも伝わりづらくなっている。それは歌詞の難解さもそうだし、曲の複雑さもそうである。だがそれは、パンクの根源にある危機を正確にとらえ、それを表出するうえでは必要なことだったのだ。政治は単に伝わりやすいだけではファッションで終わってしまう。それこそ元祖パンクがファッションで終わってしまったように。ファッションとして消費されないだけの内的な構造と強度を備えたとき、もはやパンクはさほど伝わりやすいものではなくなってくる。だが、それだけの抵抗体となったパンクは、聴く者を内面的に政治化する。聴く者はもはや「パンク」というスローガンによって煽動されるのではない。聴く者は、fugaziを何度も聴いているうちに自然と内部に備わっていた自らの危機に気づき、何とはなしに不安になり、焦り、ゆっくりと政治化されていくのである。fugaziの狙っている政治性はそのような内面的かつ確実な政治性であり、それゆえ瞬時には伝わらないが持続する効果を聴き手に対して持ち続けるだろう。