音楽レビュー
ACIDMAN『創』
ACIDMANの音楽は、聴く者の情熱をかきたて、かつその情熱を目標にぶつけてくれる。
太陽と空の間 静かに開いた世界に
憧れてしまったんだろうか
(「赤橙」)
このように、ACIDMANの音楽は、世界など抽象的で包括的なものに対する、憧れのような情熱で満ちている。ところで情熱というものは、人間に不断に湧いてくるものだが、それが的にぶち当てられることで昇華され、人間は情熱の目標への投擲によって快楽を感じる。それが目標への帰属というものである。逆に、情熱が目標を失いさまよい始めると、あるいは情熱の目標が分からなくなると、人間は感情に振り回され不健康になる。
響き渡る楕円形の球体 生命が宿り絶えゆく球体
(「揺れる球体」)
そしてACIDMANの情熱の行く先は、抽象的な響きであったり、抽象的な生命であったりする。情熱とはそもそも抽象的には響きや生命を持っているものであり、それゆえ、ACIDMANの提示する情熱の行き先、帰属先は、すべての情熱が根源的に向かい得るものなのである。それゆえ、聴き手は自らの情熱を彼らの音楽に同化させ、それを抽象的な響き・生命へとぶつけることで昇華させる。あるいは、聴き手は停滞している心理状態から情熱の種を揺さぶられ、行動に導かれる。
巡り巡る0と1の中で続くストーリー
(「シンプルストーリー」)
ストーリーとは結局自己の人生である。その動きが0と1に抽象化されるのである。結局ACIDMANの情熱の行く先とは自己の人生であり、それゆえ情熱へ向かう運動は自己へ回帰する運動でもある。彼らの音楽の目標は響きや生命であった。だが響きや生命とは本来個人個人が備えているものでもあり、彼らがそこへ抽象的に向かうとき、それは同時に個体的な生命の根源へと回帰する運動でもあるのだ。
ACIDMANの音楽は、その情熱に聴く者を巻き込み、聴く者の情熱を、抽象的な響きや生命というものにぶつけることで昇華させ、同時に聴く者を自己自身へと回帰させる。そのことにより、聴く者はなにもかもを包括する全的な存在に帰属することの快楽を得る一方、自己自身へと再び帰属し、自己をより確かなものとする。