音楽レビュー
レフュジー『レフュジー』
プログレッシヴ・ロックは、かつてピンク・フロイドを聴いただけで、特に面白いとは思わなかった。だが、レフュジーは圧倒的に面白い。クラシックがクラシック内部でどんどん先細りしていく、ロックがロック内部でどんどん先細りしていく、そういう洗練や高尚化に対する反動として、クラシックの可能性もロックの可能性もともに広げたのがレフュジーだと思う。
このアルバムには、明るさと暗さ、持続と瞬発、大衆性と高尚性、流動と停滞、深刻さと諧謔、それらあらゆる対立するものが、何の矛盾もなく収められている。これは音楽が異時性を根本的な条件としているからだ。矛盾するものが同時に現れたのでは確かにそれは矛盾である。だが、異時的に現れればそれは矛盾というよりはむしろ単なる変化に過ぎない。昨日は疲れていたが今日は元気だ、そこに何の矛盾も存在しない。音楽は異時性を根本条件とすることにより、本来なら矛盾として耐えがたくなるようなものでも、変化として許容できるものとして受容する。まさに、レフュジーは、その音楽の異時性を最大限に活用し、非常にキャパシティの大きな音楽を作り出している。
ここにあるのは克服と相対化の物語だ。鍵盤楽器を担当するパトリック・モラーツは、クラシックとジャズの地盤を持ちながら、それらを相対化していったのだ。狭い世界に安住するのは心地よい。狭い世界から抜け出すには克服が必要で痛みが伴う。そのような相対化の中で様々な相矛盾するような要素を異時的に包含するスケールの大きい音楽を作り出していった。そして、このスケールの大きな音楽は、聴く者の狭い音楽観を破壊する。聴く者に痛みを感じさせる。聴く者もまた、自らの音楽観を克服し相対化することを迫られるのだ。
Some-day you're gonna feel the pain
(「Someday」)
ここで言われている痛みとは、まさにレフュジーの音楽が聴く者の狭隘な音楽観を破壊し、そのことによって聴き手が感じる痛みであろう。そして、聴き手は、聴いているときは異時的に音楽を受容するが、アルバム全体を振り返ったとき、同時的に相矛盾する要素がそこに含まれていたことに気づかされる。この矛盾の同時的存在による痛み、その痛みのことも、ここでは言われているのかもしれない。