音楽レビュー
ACIDMAN『新世界』
ACIDMANの音楽について語る場合、彼らの「世界観」について語るのはどうやら次元を間違えているようだ。なぜなら、彼らは特定の世界観を持っているのではなく、「世界について」音楽を作っているからだ。その「世界」は特定の世界ではなく、概念的で一般的な世界なのだ。だから、彼らは世界観を持っているわけではない。彼らは特定の世界を超えた「世界一般」について曲を作っているのだ。
だから、彼らの音楽は何物でも許容する。歌詞には「ひとつ」「すべて」「最後」のような、全体を表す言葉がよく用いられるが、それは、細部を細々と規定するのではなく、全体の枠組みについて操作を加え、その枠組みの中は如何様であっても良い、と許容する彼らの態度の表れである。細部を規定して聴く者を束縛するのは彼らの意図するものではない。むしろ、枠組みだけ与え、細部を自由に細工することを許す、あるいは、それぞれの個性でもって世界を自由に充填していい、それが彼らの態度なのである。
彼らの曲は優れて概念的であり、その意味で、彼らの音楽が暴力と美とを共存させていることは至極当然のことなのだ。暴力はその細部を細々と規定されず、美もまたその細部を規定されない。暴力も美もともに概念化され、一段と高いレベルで統合される。荒々しいと同時に美しいという彼らの音楽の特徴は、その概念化に基づくのである。
さらに、彼らの前進には際限がない。「Further」という曲名にも表れているように、どこまでも遠くに行ける。それは、道筋に細部がなく、道筋が概念化されているからだ。具体的に道筋が既定されていないので、自由に道筋を作り出し、無限に道を進んでいくことができる。ACIDMANの音楽は概念の音楽なのである。