音楽レビュー
鬼束ちひろ『剣と楓』
鬼束ちひろは、体を振り絞るようにして、左手で演技をするかのようにして、派手に力を込めて歌う。歌い方からして何かに取りつかれたような、少し気でも狂ったかのような、そういう重さを感じさせる。歌詞の内容も重い。幸福を求めても得られなかったり、罪の意識を受け止めたり、辛い恋をしたり、愛情に恐怖を抱いたり。これらは全て、鬼束が性悪説であったとか、鬼束が人間の不条理さに敏感であったとか、単純に鬼束がうつ傾向であるとか、そういう説明では汲み取れないものだと思う。
私が思うに、人間の根源にはある名付けがたい「もの」がある。「es」「it」「それ」とでもしか名付けられないような、そういう根源的な海の様なもの。それは、善悪という規定以前のものであり、また、条理不条理以前のものであり、さらには物質生命という区分以前のものである。もっと言ってしまえば、それは存在しているかどうかも怪しい。ただ、それが「ある」と仮定した方が色んなものを説明しやすい、そういう理論的な存在に過ぎないかもしれない。鬼束は、その根源的なものと共生共存できる極めて強い人間なのだと思う。
人間の根源にある海は、時には凪ぎ、時には荒れ、清濁両方のエネルギーを生み出す。たいていの人間は、その海からやってくるものを清いもの、明るいものと変換する、あるいは、それが本来濁ったもの、暗いものともなりうるということに気づかないふりをすることに慣れている。つまり、たいていの人間は、その根源と共生するのではなく、その根源をうまく操り、自分の都合のいいように変形してしまうのだ。たまに何かショックなどがあり憂鬱になるとき、その根源の存在に気づいて右往左往するくらいである。
だが、鬼束は、その人間の根源にある海と、それが清濁いずれにも分化しない状態で共生しようとするのである。だから、鬼束は常に根源に呼びかけられ続ける。そして、自分を駆動するエネルギーが常に負にもなりうることに気づかずにはいられないのだ。だから、単純に幸福にもなれないし、自分のエネルギーが罪の烙印を着せられうることを無視できないし、愛情も無批判に受け止められない。その、根源的な地点で、自らの名付けられない「もの」と共生し続けること。そこに鬼束の異様な強さがある。