音楽レビュー
eclat『Live au Roucas』
eclatの音楽は、混色的である。ロックであるとかジャズであるとかクラシックであるとかヴォーカルであるとかインストであるとか、すべてが織り交ぜられている。だから、彼らの音楽は、それらのどれとでも言うことができるし、逆に言えばどれとも言うことができない。近代的な自律性や統一性、形式性、そんなものは音楽のシーンではとうの昔に捨て去られているわけだが、その意味を改めて問い直させてくれるバンドである。
思うに、音楽が自律的で統一的で形式的であるということは、作曲家にとっても演奏家にとっても聴衆にとっても「楽な」事態である。音楽とは一定の枠組みで認識されるものであるが、その枠組みさえ身につけてしまえばどんな音楽でも楽しむことができる。それが音楽の古典派がなしえたことである。いわば、音楽を楽しみやすく分かりやすくするのが、古典派のなした営為であった。
ところが、eclatに顕著なように、現代の音楽は混成的であり、分裂的であり、流動的であるので、認識の枠と言うものを簡単に形成することができない。これは作曲家にも演奏家にも聴衆にも負荷をかける。特に聴衆は、それまで音楽をただ感覚していればよかったのに、もはや音楽鑑賞は「感覚」だけでは済まなくなっている。聴衆は、音楽を感覚するだけではなく、音楽に接して意志しなければならない。自分はこういう枠組みで聴くのだ、自分はこういう解釈をするのだ、そういう意志が必要になってくる。
音楽が近代性を失った現代、聴き手は感覚だけでは済まない。聴き手はより積極的に、音楽を意欲し、音楽の認識を意志し、不統一で型に当てはまらない音楽に対して何らかの態度決定が迫られる。