音楽レビュー
Syrup16g『Syrup16g』
Syrup16gが解散したのは当然ではないか。私は初め、彼らが解散したのは、バンドを維持するだけの正のエネルギーが恒常的に不足していて、希望の喪失が耐えられない地点まで来てしまったからだと思っていた。だがそうではない。Syrup16gは20代の音楽なのだ。20代の音楽を30代になるまで続けていくことには、彼らの中で内部的な矛盾があったのだと思う。
理想を夢見てきた
いいだろう
途中までいい感じだった
破滅の美学なんかを
利用して
いざとなりゃ死ぬつもりだった
結局おれはニセモノなんだ
(後略)
「ニセモノ」より。これは彼らの最後のアルバム『syrup16g』に収められているが、このとき五十嵐は34歳ぐらいだった。理想の挫折、破滅の美学、自己否定、そんなものを、一時的な愚痴としてではなく、何度も繰り返され聞かれるものとしてCDに固定するというそのことの、馬鹿げた甘えた根性に、彼らはもう耐えきれなかったのではないか。それらの悲劇を多くの人間は20代でなめ尽くす。30代になったら、そんなものはもはや当然のものとして、それよりもそういった悲劇にいかに対処して前進していくかを考えるのだ。
人生の矛盾、つまり、生きていながら苦しまなければならないという決定的な矛盾、それを歌いあげる、誇張する、そしてそれに驚愕する、それは20代の発想である。20代にとっては切実な問題である。だが、人間は30代になると、その人生の矛盾といかにうまく対処していくか、それを考え、それを普通に実践していく。30代になれば、むしろ人生の矛盾などとるに足らない当たり前のことであり、それをことさらに歌い上げる必要はないのだ。むしろ、そんなことをしているのは自分の未成熟の証明であり、恥ずかしいことである。Syrup16gは、人生の矛盾を歌い上げるという20代的な発想を、彼らが成熟することにより、30代になって維持することができなくなり、当然破綻し解散したのではないだろうか。
実際、アルバム『syrup16g』の装丁はシンプルで謙虚であり、おとなしい曲も多い。『HELL-SEE』の赤を基調としたクレイジーな装丁とは大違いだ。
痛みを知って大人になる
それにも限界があって
痛みを知って臆病になる
それからが本格的
分割はやめようよ
この一瞬に全部かけるのさ
「バナナの皮」より。この歌詞の趣旨は、大人になって臆病になることの拒絶だが、五十嵐はもはや自分が大人になって臆病になってしまったことに気づいていたのだ。臆病になることへの虚しい抵抗として、一瞬に全部かけるということを主張する。だがそれはもはや功を奏しない。彼らの楽曲はすべて「痛みを知」ることの音楽への固定化だった。この歌詞によって、五十嵐はそれまでの曲の総決算として自分が大人になってしまったことを認めている。だが彼は大人になったことを素直に認められない。だから、「臆病」という、批判的な属性だけを「大人性」から抽出してそれを糾弾しようとする。だが彼がもはや大人になって元に戻れないことは明らかだ。
ここに、Syrup16gの抱えていた矛盾が端的に露呈している。痛みを知りそれを叫ぶという20代的な発想が終焉を告げ大人になってしまった。にもかかわらず大人であることを認めたくない。この矛盾によって彼らは解散したのではないか、というのが私の勝手な考えである。