音楽レビュー
パレストリーナ『Masses*Messen』
パレストリーナの音楽は厳然として静的だ。神が「不動の動者」、つまり自らが動かずに世界を動かしているものだとすると、パレストリーナは神の圏域にできうる限り近づこうとする。彼の音楽は歓喜を伴う生産的なものではない。むしろ、彼の音楽の運動は、神に近づこうとしても近づけなかったが故に、完全に静止できなかったことの証である。彼にとって音楽が運動することは、喜ぶべきことではなく、恥ずべきことなのである。完全に静止できない人間の不完全性が、彼の音楽の運動に他ならない。
パレストリーナを聴いていると、あらゆる罪や汚れが許され浄化されていくかのように感じる。それだけではない。あらゆる否定的な感情・価値、そういうものが拭い去られていく。だが、人間である私はその浄化作用に抵抗を感じる。なぜなら、私は罪や汚れにもすでに愛着を持ってしまっているからだ。私は罪や汚れを嫌うと同時に愛している。それゆえ、それらが除去されてしまうことに、非常に人間的な抵抗を感じるのだ。
キリスト教音楽は偽善の音楽だ、ルサンチマンの音楽だ、という先入観があったが、偽善を徹底するとそれはもはや善になってしまうのではないだろうか。外観を装っていると、いつの間にか内面まで外観と対応していく。善を装うことを徹底していくと、いつの間にか実質まで善になってしまう。パレストリーナの音楽は、この偽善の極致にある真なる善を体現しているように思える。