音楽レビュー
NICO Touches the Walls『Passenger』
NICO Touches the Wallsの音楽の基礎にあるのは、罪の意識のない拡張的な暴力である。彼らは確かに罪を感じるのだ。だが、罪の意識という湿っぽく悩みに満ちたものには沈潜しない。彼らが罪を感じたとき、彼らはそこではにかむのだ。そして乾いた冷笑で一蹴する。彼らのメンタリティーは反日本的であり、絶望や罪に神経症的な湿り気を持たせず、むしろ絶望や罪の底を一蹴りして復活する、うすら笑いとともに浮き上がってくる。
死んでもまた 再起動です(「サドンデスゲーム」)
彼らの音楽や歌詞が内向的で紛糾した様相を呈するのは、むしろ彼らの外向性と単純さの表れなのである。外向性は突き詰めれば、内側までその触手を伸ばすし、単純さもそのエネルギーが強ければ自然と複雑の様相を呈する。
いっそ壊してくれよ
殻の俺の中にはまた
何の痛みもない
さらにちっぽけな俺の殻(「マトリョーシカ」)
このように、彼らの暴力は外側に向かうだけではなく、自己の内側にまで及ぶのだ。これは、彼らが逃げたり隠れたりする結果ではなく、むしろ、どこまでも探索していこうとする優れた外向性が、内部をすら外部として侵略しようとした結果なのである。そして、彼らの触手はとてもなめらかで、対象に粘着しない。「俺の殻」と言っているが、この殻は自らを防衛するためというよりは、むしろ外部を攻撃し、そしてその際に外部と粘着し外部に絡め取られないためのものなのである。
だから、彼らの音楽には気持ちのいい割り切りがある。勝負しましょう、そう挑んでくるが、勝敗にこだわらない。彼らの音楽との対決において、互いに粘着するということが無いから、さわやかな運動感だけが残る。とにかくいくら紛糾しても自滅することが無く、そこから必ず生還してくる。乾いたうすら笑いとともに。乾いたうすら笑いこそが彼らの本質であって、音楽や歌詞で武装しても、結局はそれがむき出しになってこちらに伝わってくる。