音楽レビュー
ハイスイノナサ『想像と都市の子供』
ハイスイノナサは、あらゆるものを虚構化・人工化する。人間が自然的存在であるというそのことにすら、作為・虚構・人工が先立っているのだ。そのようにして、彼女らの音楽は、自然が原初であるという考え方を覆すと同時に、人工を原初としてそこからいかに自然を構築していくか、その方向に向かっていく。
切り抜いた八月の
工場と歌う声
陽炎が時計の手を止めた
間違いを探す
(「想像と都市の子供」より)
「八月」は自然的に存在するのではない。それは「切り抜」かれて、つまり人為的な作為に先立たれて初めて存在するのだ。そして、時間は「時計」、つまり人間によってそれを計測するものがあって初めて存在する。「想像」と「都市」という言葉に、彼女らの理念は端的に現れている。あらゆるものは人間の想像の産物でしかなく、人間の想像が物理的に巨大に蓄積したものの象徴が都市なのである。
だが、彼女らの楽曲の、まばゆいばかりの光量、そして自然の川や風などの流れを模倣するかのようなメロディー、そして自然のあいまいな音に近似させられたボーカル、それらを考えれば、彼女らの世界観が単なる自然に対する懐疑などというペシミズムではないことが分かる。むしろ、彼女らは人工を用いていかに自然を再構築できるか、自然と人工という単純な二項対立が成立しない地点で、人工が自然に先立つと同時に自然も人工に先立つという、自然と人工の未分化な地平を切り開こうとしているように思える。