青息吐息日記
2
瀬古祐介は退屈していた。
小説風に書き出してみた。
俺は、本があまり好きじゃない。文が読めないから、人が多くて理解できないから、とかじゃない。ほとんどの登場人物に何一つ感情移入できないからだ。どんなにハッピーエンドでもバッドエンドでも、瀬古祐介がその本を読んでハッピーになることは、まずない。だから俺は本を読まない。
対して、小金井波希は読書好きだ。
現に今だって、俺の目の前で文庫本のページを目で追っている。まるでそのためにだけに私の瞳はある! みたいなノリで。まぁここは図書館だから何ら問題はないのだが。でも勉強しようっていう名目でせっかくデートをしているのに、俺を無視して本に夢中になることはないだろ? おかげで小金井の数学は全然進んでいない。ちなみに俺の数学のノートにも、いっこうに文字が埋められる気配はなかった。
じっと見つめる俺の空気的なものに気付いたのか、小金井は顔を上げて「あ、ごめん」と言った。今のは何に対して謝ったんだろうか。勉強するために来たのに本を読んでるから? それとも、俺を放置していることに対して? まぁただ反射的に言っちゃっただけだと思うけどね。
「何読んでんの?」
「……イズミキョウカ」
綺麗な響きだ、と思った。小金井は文庫本をちょっと立てて、表紙を見せてくれた。『泉鏡花』、イメージ通りの字だ。
「たかの、せい?」
「こうやひじり」
彼女はくすっと笑った。『高野聖』とはそう読むらしい。
「どんな話?」
「まだ途中だから」
「エロい?」
「……あー、ちょっとだけ」
へぇ、意外、と思った。小金井の反応と、彼女が読んでいる本に。
照れもあってか、ちょっと赤くなった小金井の「読む?」という問いに、「いや、いい」とだけ答える。俺が読書に興味がないのはわかっていると思うが、嫌いだとは話していない。自分の好きなものを否定されて喜ぶ奴なんていないから。
小金井とは同じ中学校だった。三年のとき一度だけ同じクラスになったけど、タイプが違うっていうか、俺は部活頑張ってたし、結構うるさい系のグループだったけど、小金井は大人しくて静かな女の子で、可愛かったけどそういうグループとは別の次元っていうか、とにかく関わり合いはなかった。仲のいい友達に誘われて、女子と俺たち男子のグループと一緒にどっか行こうって話のときも、小金井だけは遠慮して来なかった。残念がった男子もいた。あと卒業アルバムの写真が彼女だけ異様に綺麗に撮れていて、もちろんノーメイクだったと思うけど、ケバくておしゃべりがうまいだけの女子なんかより十倍は可愛くて、まるでどっかのモデルみたいだったのを覚えている。そんな感じで小金井のことは中学はふーんって過ごして、高校同じで、二年でまた同じクラスになって、なんか付き合うことになったのだ。人生どうなるかわからない。
*
昼は持ってきた弁当なんかを食べたりして、午後からは二人ともちゃんと勉強することにした。明後日の月曜は数学と世界史のテストだ。俺は歴史だけは得意だったけど、数学は誰かに教えてもらわないと無理だった。小金井は現文と数学が得意で、その組合せはずるいだろ、と思うけど、そのために今日一緒にいるんでしょ、と笑われた。そのためだけじゃないけどね、俺は。
図書館で唯一しゃべっていても誰にも咎められないフロアで、今度こそ勉強する。近くは絵本のコーナーだったから、床には畳が敷いてあって、子どもたちに読み聞かせをしていた。
「私、『だるまちゃんとてんぐちゃん』好きだった」
「俺、がらがらどん」
「ヤギのやつ?」
「そう、三びきの」
最近は全然読まないが、今でも絵本は好きだ。ストーリーはシンプルだし、色も鮮やかだから見ていて楽しい。主人公の心情なんて考える必要もない。たまに理不尽な終わり方にびっくりするけど。
テスト範囲の解けない問題を小金井に聞き、小金井には世界史の出そうなところを教えた。俺のヤマはよく当たる。世界史と日本史はおもしろい。人物の感情なしに、淡々と歴史が流れていくのがいい。
*
四時になり、お互いきりのいいところで帰ることにした。
休日のバスは結構混んでいて、二人とも立つしかない。車内に見知った顔がないか気になった。図書館前を経由するこのバスは、俺たちが利用する通学のものと同じバスだ。
俺と小金井が付き合っていることに気付いてる奴は、高校ではほとんどいない。元中の何人かがなぜか知っているだけで、親しい佐名や木津にも言っていない。小金井があまり人に知られたくないと思っていて、俺も今更告白してアホな空気を微妙に変わらせるのは嫌だった。まぁいいか、と思うことにしている。というかもう、今は隠しているに近い。つまり、あいつらに告げるタイミングを逃したのだった。
「そういえば昨日、佐名くん大人しかったね」
「そうだっけ?」
散々迷った挙げ句、小金井はテスト前なのに十冊ぴったり本を借りた。ぱんぱんになったショルダーバッグの肩のところをかけなおす。重そうだった。
「なんとなく。昼休みのとき、いつもだったら瀬古くんと由香里ちゃんにもっと言い返すし」
「あぁ、日記ネタ?」
そこでバスが停まり、前に座っていたおばさんが降りた。ほかに立っているのは若い奴ばかりなので、小金井を座らせた。荷物をひざにのせて一息ついた彼女の隣で、部活帰りの下級生が音楽を聴きながら、うつらうつら船を漕いでいる。
「大人ぶってんじゃないの? どうせ保たないけど」
「十八歳だから?」と小金井が呟き、二人で笑う。
「もしかしたら、純ちゃんのこと気にしてるのかなって」
「……あぁ、早川さん」
誘拐されたという噂の早川さんは、高三で初めて同じクラスになった少し浮いてる女子だった。言動が周りと合わないとかじゃなくて、雰囲気が同年代とちょっと違うくらいだ。小金井や芝とはよく話していたし、男子では一番佐名と仲がよかった気がする。体育祭のリレーは、クラスからは俺と早川さんが代表になるくらい、運動神経も悪くない。なんというか、俺はかっこいい人だと思っている。
話すことがなくなる。
小金井も黙ってうつむいている。つむじが見えた。早川さんのことが心配なんだろう。クラスではあまり、話せる雰囲気じゃないから。
二人でいるときの沈黙は気まずくはない。小金井の大人しい性格が好きだし、俺も無理に話題を見つけようとはしない。
つぎとまります、とブザーが鳴って、小金井が降りる一つ前のバス停に着いた。歩道側にいた俺は、小金井と眠りこけた学生の向こう側に、どこかで見たことのある奴をとらえる。
目があった。
佐名だった。
「あ」と声をもらした俺に気付いて、小金井も窓の外を見る。
「あっ」と彼女が小さく叫んだのと同じように、佐名も口を開けた。
何人かがバスから降りるが、佐名はベンチに座ったままだ。
扉が閉まる。
発車した。