桜の下の秘か
三
山の桜は胸が痛むほど、涙が出るほどに美しい。まるで異界に迷い込んでしまったのではないかと錯覚するほどに。
だからだろう。彼女という不自然の存在すら容認していた。
「この山の桜は麓から見るのと真下で見るのとではまるで違うのね。遠くから眺める桜もとても綺麗だけれど、こんなにもたくさんの桜の下にいると綺麗すぎて怖いくらい」
つい先刻出会ったばかりの素性も知れぬ女はまだ山に居た。
祖父が知れば烈火の如く怒り狂うだろうが、僕自身は別に構わないので放っておくことにした。
普段の僕は他人の存在に神経質なのだが、彼女は過剰に僕に構うこともせず、かといってあからさまに無視するでもない人で、近くにいて苦痛ではなかったことも大きい。
「御本を読んでいるのね」
まるで舞うように桜の木々の合間を歩いていた彼女は、岩場に腰を下ろした僕の手元に視線を遣って笑った。
「坂口安吾。私も好き」
僕が黙って彼女を見ていると、彼女は元から僕の返事など期待していなかったのかすぐまた桜へと視線を戻した。
その横顔には常に穏やかな笑み。頬を撫ぜた風はそのまま彼女の髪をも揺らし、その桜色の袖を揺らす。
本当に彼女は人ではないのかもしれない。
そんな愚かな夢想をしてしまうほど彼女は美しく、それでいて現実味のない人だった。
年の頃は僕とそう変わらない。恐らく十代後半、僕より幾つか年長ではあるだろうが。長い髪は結わずにそのまま垂らしており、仕立ての良い桜色の振袖を纏っている。血色のよい唇も、荒れたところのない細く白い指先も、僕が見てきたどんな女性とも違った。否、似ている人が一人居た。
村の殆どの女が朝から晩まで働いている中で異物だった、苦労知らずの母。
労働に従事することもなく、常に見事な着物を纏い、手が荒れるまで水仕事をすることもなかったあの人に。
差し伸べられる手は、いつだって真っ白で綺麗だった。
記憶の中の母はとても美しい。
いつも綺麗に髪を結い上げ、綺麗な着物を着て、時折歌を口ずさみ、庭先の草花を愛でた。純粋で無垢な娘のまま、母となってしまったような人だった。
――ああ、やはり彼女は母に似ている。
その桜色の振袖が映える肌が、その鈴を転がすような声が、その声で紡ぐ幼子のように無邪気な言葉達が。
もう十年も昔の話だ。まだ幼かった上、時が絶ち過ぎている。記憶も朧だというのに、母という人の存在は今も僕の中に強く残る。
きつく瞼を閉じてその影を振り払う。
いい加減忘れてしまえ。年に数度、手紙しか寄越さない、己の自由のために子供を捨てる親のことなど。
「どうしたの?」
ふと瞼を持ち上げると、目の前に彼女がいた。
「どうしてそんな顔をしているの?」
「え?」
女の言葉の意味がわからず、僕は間の抜けた声を上げた。
すると彼女の白い手がすっと伸びてきて僕の目尻に触れた。
――冷たい。
彼女の手は冷たく、それがとても心地よい。
「ほら、泣いている」
そのまま目尻を拭うようにして女は言った。
「泣いて……?」
僕は飛び退くように立ち上がった。反射的に手の甲で目元を拭う。そこには確かに濡れた感触。
頬がかっと熱くなる。
男子が人前で、それもよりによって女の前で泣くなんて。他人に知られたら一生ものの恥だ。
だが彼女は軽蔑するでもなく、嘲るでもなく僕を見詰めていた。ただその目を不安げに揺らして。
「……何でもない」
顔を背け、小さくそう告げると女はしばらく黙った後、そう? と言って僕から視線を外した。
「桜が綺麗ね」
彼女は唐突に言った。
「とても綺麗」
空を見上げ、目を細めて彼女は呟く。
「綺麗すぎて泣きたくなるわ」
彼女は僕に向き直った。
「何と言ったかしら……桜の木の下には死体が埋まっている。だから桜はあんなにも美しく咲くのだと書いた人がいたじゃない? あの小説の主人公は桜をとても恐れていたけど、私は桜を見ると胸が詰まって、叫んで泣き出したくなるのよ。涙と一緒に内に溜め込んだ物を全て、桜の下に吐き出したくなる」
そっと伏せられた長い睫毛が白い頬に影を落とす。その睫毛に縁取られた黒く大きな双眸が憂いを帯びる。
「桜の下では、あらゆる秘密が暴かれる気がするの」
ふわりふわり。
桜の花弁が彼女の髪に落ちる。
「だから本当は、長く桜の下にいてはいけない気がするの。でも、全て吐き出して楽になってしまいたいとも思う。秘密を守り続けなければいけない、けれど秘密を失くしてしまいたい」
「秘密……」
「秘密を持つと苦しいわ。早く吐き出してしまいたい。けどそうしてはいけないから、秘密は秘密なのよね」
そう語る彼女は、どんな秘密を持ってこの山にいるのだろう。
強い風が吹き抜け、彼女の顔を弄りその顔を隠してしまう。
……風が冷たくなってきた。
顔を上げれば、空はまさに桜色一色だった。
もうじき満開を迎える桜の花と優しい夕焼けの色はよく馴染み、もとから同じものであったかのようだ。
「じきに日没だわ」
風に揺られる髪を抑えつけながら彼女は顔を上げた。
そこには笑み。だがその双眸の憂いだけはより色濃くなっていた。
「夜が来る前に、もうお帰りなさい」
赤い唇だけで緩く微笑む。
「早く帰らないと、お祖父様に叱られるでしょう?」
僕は頷き、本を閉じて立ち上がった。
山に自由に出入りすることは祖父の許可を得てのことだが、だからといって四六時中出入りしていてはいい顔はされない。機嫌の悪い時であれば最悪山への出入りを禁止されかねない。祖父はそういう人だ。
「貴女ももう家に帰ったほうがいい」
そう言うと、彼女は目を輝かせた。
「心配してくれるの?」
「婦女子が夜道を一人で歩くのは危険だ。それに此処は小さな山だが急な段差もある」
彼女は少し拗ねたようにまるで子供のような仕草で唇を尖らせた。
「つまらない心配の仕方。貴方は女になら誰にでもそのように言うの?」
「夜道の一人歩きは、概ねの女子供には危険なことだ」
すると彼女はますます不満げな表情を浮かべた。
「何よ。概ねの人間の心配でなく、私が心配だからとか言ってくれてもいいのに」
「……じゃあ貴女が心配だから、早く帰ったほうがいい」
「取ってつけたような言葉。でもいいわ。嘘でも」
彼女は軽やかに笑ってくるりと背を向けた。
「だけど私は大丈夫よ。だから貴方はもうお帰りなさいな」
「そういうわけにはいかない。もし山を出たところでうちの人間に出くわせば祖父の元へ引き立てられる。祖父は自分以外の人間には容赦のない人だ」
「大丈夫だったら」
まるで何でもないことのように彼女は笑うが、祖父という人を間近で見て育った僕にはとても楽観しできるようなことではない。
「――心配してくれている」
小さな声に、思わず目を見張った。
彼女は笑う。
「私のことを心配してくれているんでしょう? 私がおうちの人に見つかったら大変だって。嘘が真になったわ」
ふふ、と嬉しそうに笑う。
「だけど私は本当に大丈夫よ。むしろ貴方と一緒のほうが目立っていけないわ」