Reborn
晩年において、あらゆる形象は疑わしく、あらゆる官能は陰りを帯びる。晩年は世界を一変させる。世界の事物はとてももろくて、触れたときの抵抗は実体化した死でしかない。世界は深さを失う。深淵など存在しなくて、あらゆるものに手が届いてしまう。すべて真摯なものは礼儀に代わる。私はもはや真剣に学問を追求するわけではない。学問の追究は、ただ学問に対して礼儀を尽くしているだけである。実体は方法と化し、方法が実体と化す。晩年の始まりだ。
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この時点で空虚感は最高潮に達する。実在するものは何もない。つまり、自らの空虚さが、自らを取り囲む世界の空虚さに投影されたのだ。自分は空虚である。ところで自分を満たしているものは、この光だったりこの机だったりこの感情だったりする。自分が空虚だということは、この光もこの机もこの感情も空虚だということに他ならない。ということは、すべては空虚なのではないか。私はまたコーヒーを、今度は間を置きながら二口啜る。コーヒーはいつでもよそよそしい。私の体に入っても私に溶け合うことはなく、そのまま空気の中に出ていってしまうのではないだろうか。私は結局、コーヒーとの敵対関係を楽しんでいるのだと気づく。さらに一ヶ月後の日記。「老人」という表題。
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自分はもはや晩年に達しているとは感じていたのだが、そのときはまだ自分は若いと思っていた。だが実は、自分はすでに若くなく、老人なのではないだろうか。
喫茶店の隅の方でコーヒーを飲みながら、若い人たちがたわいもない話で盛り上がっているのを、目を細めてまぶしそうに、いとおしそうに眺めている老人。それが私だ。希望に満ち、人生に深入りせず、ありのままに自足し幸福感に浸っている多くの人たちを、ただうらやましいと感じ、一人で感傷に浸る老人。自分はそういう幸福な輪の中についぞ入ることができなかった。誰からも気にされることもなく、むしろ小汚い老人だと侮蔑されている存在、それが私だ。
自分の家に帰ると書斎にはいりこみ、難解な哲学書や文学書を読みふけり、論文などを書く。誰一人身寄りはなく、体も弱り、常に死の恐怖や絶望と戦っている老人。それが私だ。たまに人と会うと、重い話題や説教くさい人生論ばかりして煙たがられ、だんだん人から疎まれていく老人。それが私だ。過去を振り返り、その美しさや悲しさに驚嘆し、その思い出だけで数十分費やせる、未来には何もない、そういう老人。それが私だ。
かつて、楽に生きている人間の言葉など聞きたくないと思っていた。そのころまだ私は若かった。むしろ今では、楽に生きている人間の言葉がまぶしくて仕方がない。他人の幸福をそっと眺めてそれを慈しみ、こそこそと背中を丸めながら喫茶店を出ていく老人、それが私だ。
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私はコーヒーを無理に飲み尽くす。「晩年」を書いていたとき、たぶん私は苦しんでいた。地の底に落ちていくような、あらゆるものが色を失っていくような、そういった感覚があった。だが、ここにおいて、むしろ私は自分をいつくしんでいる。自分は老人に過ぎないが、その老人である自分を愛し、優しさで包み、自分が老人であることに諦めている。絶望の底にはひそやかな花園があった。老境という花園だ。派手な花、匂いやかな花、媚びてくる花、そんなものはない。ただ質素な花がつつましく咲いている、淡い光に満ちた花園だ。私は老境で、空虚感を反転させた。裏返しにした。裏返しにしても空虚は空虚だったが、裏地は質感が異なっていた。表は苛烈な質感だった。だが裏地はとても肌触りがよく、私を包み込んでくれるのだった。
郵便配達人のバイクがやってくる。どどどど、という独特のエンジン音なのですぐにわかる。ポストが開けられ、中にものが入れられる音がした。また、どどどど、と去っていく。私は空になったマグカップを眺めてみた。というより凝視した。凝視しなければならないと思った。空虚を埋めるのは、案外そういうところにあるのではないか。身近なもの、些細なものをひとつひとつ凝視していくこと。些細なものの実在感を取り戻していくこと。その積み重ねなのではないか。
友人と会えないかわり、私は「自分」と会った。会話した。「自分」は友人のように完全には私の外向的な欲望を満たしてくれない。だが、「自分」を他人のように眺め、「自分」と意思疎通したとき、私は人と会ったときのような満足感を得た。私は「自分」と初めて出会ったように思った。「はじめまして! はじめまして!」私は心の中でそう叫んだ。涙が自然と零れ落ちた。