沈黙のエンジェル
私はとても声を発することができず、何度もうなずくことしかできなかった。
ドロスコイフは私の右手をとると、強く握りしめて言った。
「君の旅立ちの瞬間を見守っているから」
そして無言のまま、手を握り合っていた。
しばらくして申し訳なさそうにやってきた係員が、私のヘルメットのバイザーを閉じた。彼は、ドロスコイフを下がらせると、方舟の蓋を閉じた。
その瞬間、私はあらん限りの声をあげて泣き叫んだ。
「ドロスコイフ!」
やがて激しい振動に揺さぶられ、眩い光に包まれた。
喉に激しい痛みを感じ、我に返った。
何度も泣き叫んだためだろう。涙を大量に流したためか頬がまだ少し濡れていて、一部は乾いてひきつっていた。
目を開けると、60インチの画面を背に空崖が立っていた。
「えっ? どういうこと?」
私は事の本質がつかめないまま、現実に引き戻され戸惑った。
あれは何だったのだろう。
すると頬を濡らしていることが急に恥ずかしくなり、慌てて横を向き、アンジーの方に目をやった。彼女もまた眼鏡をかけたまま涙で頬を濡らしていた。それは初めて見るアンジーの涙だった。
その瞬間、何か大事なことを思い出したような不思議な感覚に襲われた。 しかし、その正体を確かめられないまま、その感覚はすぐに消え去ってしまった。
ガサゴソと物音がした。
そちらに目をやると、織長と黒棹がそれぞれ眼鏡を外してテーブルに置き、身づくろいをしたり、座り直したりしていた。
空崖は無言のままテーブルに近寄ると、その上に置かれた眼鏡をケースに戻そうとした。
黒棹は空崖と目が合うと、無言のまま労をねぎらうかのように目礼をし、織長も同じように目礼した。
空崖は機器を片付け始め、それを終えると一礼し、無言のまま去っていった。
私はてっきり、空崖から何らかの説明がなされるものだと思い込んでいたので拍子抜けした。
黒棹もまた無言のまま、織長の車イスを押し、織長の自室へと戻っていった。
問題が解決したのか、しなかったのか、私にはそれさえわからなかった。
応接間には私とアンジーが取り残された。しばらくそのまま座りこんでいたが、それで何かが解決するわけでもなかった。私は大きくため息をつくと、のろのろと立ち上がり、アンジーの車イスを押し、離れへと歩いていった。
離れへと続く廊下を庭園を眺めながら進んでいると、ふとアンジーが若い男性にひかれるのは、そこにドロスコイフの面影を探していたからだろうか、などと考えが浮かんだ。しかし、どこかしっくりいかない感じがしていた。
車イスに揺られていたアンジーは、揺り籠に眠る赤ん坊のようにいつになく穏やかな表情をしているように思えた。
第4章 真相への接近
それから1週間後、アンジーは静かに息をひきとった。
アンジーの葬儀は、本当に寂しいものだった。
彼女の存在は織長と黒棹、配下の若い衆のほかに知る者はいない。当然のことながら葬儀に訪れる者はいなかった。
肩を落とした織長の落胆ぶりは目を覆うばかりだった。
火葬に立ち会った後、織長邸に戻ると、私は彼女が身につけていた衣服や装身具などの遺品を整理した。それが終わって、部屋を掃除すると、私がやるべきことはなくなった。
「御苦労だったな」
黒棹は、そう言うと、私にかなり厚みのある茶封筒をよこした。
中をあらためると、当初の約束よりかなり多めのお金が入っていた。
東中野のワンルームマンションに戻ると、また掃除が待っていた。
時折戻ってきては空気の入れ替えをしていたのだが、部屋は酷い匂いがしていた。
しかし、6畳1間とキッチンだけしかない狭い部屋の掃除はそれほど手間取らなかった。
私は畳に仰向けに寝転がり、丸い蛍光灯を眺めた。
すべてが終わった。
この1年間、とくにアンジーが体調を崩してからは自分の時間はほとんどなかった。どこかで食事をしたり、映画を観たりということはまったくできなかった。
アンジーの世話から解放され、ようやく好き勝手に過ごせる自由を得た。
いつまでもアンジーのことを考えているわけにはいかない。これからのことを考えよう。そう思うのに、意識は自然とアンジーと過ごしたあの時間へと戻っていく。
払っても払っても頭の中にはアンジーのイメージが浮かんできた。まるで、深い水底から浮かんでくる気泡のようだった。
脳とはつくづくやっかいなものだと思う。問題が解決し、ストレスがなくなると、今度は勝手に自分で問題をつくり出す。私は、人生の主な困難は自分自身が作り出すものじゃないかと思っている。
仕方なく、私はアンジーの思い出を、出会いから順に反芻していこうとした。
アンジーが亡くなる前の数日間、私は看病に追われ、何も考えらずにいた。いまここで振り帰っておくことは無駄ではないかもしれない。
しかし、その作業はまるで溝が傷ついたレコードのように、何度も何度も同じ時点で行き詰まってしまった。
空崖がいたあの日の応接室……。
私には積み残していた問題があったことを思い出した。
そうだあのとき、薄れかけた意識の中で何かを確かめなければならないと私は焦っていた……。
それは何だったのか。
いくら水を掻いても水面に届かない、そんなもどかしい思いにかられた。 仕方なく体を動かし、あのときと同じ動作をしようとした。他人が見たらさぞかし滑稽だろうなと思いながら、畳の上で、あたかもソファーに座っているかのように、肘かけに手置いた姿勢をとろうとして、凍りついた。
そうだ! そうだったのだ!
今、ようやくわかった。
あれはカリフォルニアの火事の場面だった。
あのとき自分が観ているものが、画面に映る画像なのか、夢なのかが判断がつかなかったのだ。それで、それを確かめようと首を回してアンジーの様子を確かめようとしたのだ。しかし、それはできなかった。
つまり……。すべては夢だったのだ!
なおも私は考えつづけたが、どうしても答が見つからずに苦しんだ。
止むなくバッグから携帯を取り出した。
「どうした?」と電話の向こうで黒棹は尋ねた。
「空崖さんに会って確かめたいことがあるの」
「無理をいうな。相手は忙しいんだ。いくら取られると思う?」
「私の働きからすれば、それぐらいしてくれても罰は当たらないと思うけど」
黒棹はしばらく無言のままでいたが、観念したのか通話が切れた。
10分後、どこからともなく昔なつかしい自動車のCMのメロディーが流れてきた。友達が少なく、ほとんど電話がかかってこない私は、それが自分の携帯電話の着信音だと気づくのに時間がかかった。
「早く出ろ。何様のつもりだ。金曜午前10時、国立の事務所へ行け。会ってくれるそうだ。30分だけだぞ」
黒棹はそれだけを言うと、こちらが礼を言う間も与えず電話を切った。
国立市の住宅街にある空崖の自宅兼事務所は小さな平屋建てだった。
ドアを開けると、内部は20畳ほどの1部屋だけで、周囲の壁にそって流しやトイレが配置されていた。