沈黙のエンジェル
中央に長机3脚をコの字型に配置し、空いた1辺にはイーゼルが立ててあった。その真ん中に、空崖がキャスター付きの事務イスに座っていた。いやに短い丈のジーンズを履き、よれよれの黄色いTシャツを着ていた。空崖は、筆をとってイーゼルに立てかけたキャンバスに色を入れると筆を置き、90度右に回り、長机の上に置かれたパソコン上のチェスの駒を動かした。そしれまた90度右に回るともう一つの長机の上のノートを開き、万年筆を取ると何やら文章を書いた。そしてまた90度右に回ると、最後の長机の上に置かれたジオラマ模型をピンセットでいじった。
空崖は私の姿に気づいているはずだったので、しばらくは黙っていた。しかし、空崖がいつまでも作業を続けていているので、堪らず口を開いた。
「それは、どんな効果があるんですか?」
「ひっかかりましたね。遊んでいるだけですよ」
空崖は悪戯っぽく笑ったが、私は少し不機嫌になった。だれもひっかかってなどいない。お前がいつまで延々とくだらないことを続けるからそれを止めさせるために声をかけただけだ。それもわからないくらいなら、この男の能力は大したことはない。私はそう思った。
「どうしてもうかがいたいことがあるんです」
「ほう。何です? おっしゃってみてください」
「あなたは思考のタイムマシンでアンジーの過去をたどると言ったけど、私が見たのはアンジーの過去じゃない。あれは私の見た夢だった」
「自分でみた夢を、他人の責任にするんですか?」
「いえ。あれは普通の夢とは少し違う夢だったんじゃないかと思います。夢にしては不思議なことがありすぎます。私が見聞きしたこともない情報がいろいろと出てくること。織長さんや黒棹さんも同じ内容の夢を見たらしいこと。そこで私が考えついたのは、あのアロマキャンドル。あの中には催眠を促す物質かまたは何か幻覚を誘発するような物質がほんの少量含まれていたのではないのですか? それを使って私たちを半覚醒状態に置いた。3D画像はアロマから注意をそらし、効果が表れるまでの時間稼ぎをする道具だった」
「それで?」
空崖はまるで表情も変えず、私に説明を促した。
「半覚醒状態に陥った私たちに、あなたは自分が予めつくっておいた物語を語って聞かせた。物語は細部までつくりこまれていたので、まるで実際にアンジーの過去の世界にいるように、私たちは頭の中にイメージを描くことができた。その意味では、あれはあなたの作品の観賞会だったともいえるかもしれない。ただ……」
そこまで来て、私の声のトーンが少し下がってしまった。
「どうしたんです?」
「ただ、そうだとしても説明のつかないことが……。アンジーの涙よ。あのとき確かにアンジーは涙を流していた。それでてっきり私はあれがアンジーの過去だと思い込んでしまった」
「思考のタイムマシンだとなぜいけないんです。それでみんな丸くおさまるじゃないですか」
「私はあなたを告発しようというのではないんです。ただ事実を知りたいんです」
「事実? それに何の意味がありますか?」
「えっ」
ここで居直るのか! それでは彼の思考タイムマシン説が事実でないと認めたも同じではないか!
「あなたは“あれ”を事実でないと認めるのね?」
「そういう意味じゃない。事実一般を問題視しているんだ。あなたがこれまで事実だと信じてきた事柄が、それほど確かだったのかと聞いているんだ?」
「どういうこと?」
「あなたが事実だと信じてきたことは、人間のごく限られた認識能力でとらえた物事のごく一面を、あなたという人間の制約された知識と経験から解釈したものに過ぎない」
「でも、私が事実と感じたことは他の大多数の人間も事実として認めているわ!」
「同じピントの外れた写真を何万枚集めようと、ピントははずれたままだ」
「何がいいたいの?」
「解釈は無数にあるということ」
「だから何が正しいか決められないというの。それは不可知論だわ!」
「いいや、そうじゃない。無数にある解釈はすべて同等で、どれか一つが絶対だということはない。重要さの点にはどの解釈も変わりがない。考えてみてください。織長さんは何を求めていましたか? 黒棹さんは何を求めていましたか? そして彼らは解釈を手に入れたのです」
「だったら、アンジーはどうなるの? アンジーは何を求めていたの? アンジーの求めには応えられたの?」
「さて、それはどうでしょうか」
空崖はお茶を濁した。
私は自分の推測がかなり真相に近いことを感じていたが、空崖はそれを認めなかった。それからしばらくは問答を続け、なおも食い下がってみたが成果はなかった。
私は、空崖の元を辞し、家路についた。
それにしても、なぜ空崖は、織長という老境の男に、とても似つかわしくない別宇宙という途方もない話を持ち出したのだろうか。権勢をほしいままにしてきた織長にさえ、とどかない深い絶望が、人にはあることを諭そうとでもしたのだろうか。
アンジーの涙の謎は、依然として謎として残った。私はその謎を彼女の思い出として大切にしながら生きていこうと誓った。
(了)