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沈黙のエンジェル

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「その前に説明しておかなければならないことがあります。タイムマシンの基本的な機能についてです。タイムマシンが、ある人間の過去に戻ることができるのは、トレーサビリティがあるからです。日本語では追跡可能性といわれるものです。ちょうど農産物につけられたICタグで、消費者に渡る前の流通経路から生産段階まで時系列にさかのぼって記録をたどれるのと同じです。タイムマシンは、まるでこのICタグのように私たちを構成する物質から時系列をさかのぼる機能があると考えるのです。コミュニケーションのとれないアンジーは、さしずめタグが読み取れない状態だといえるでしょう。それでまず3人の方々とアンジーとのかかわりを時系列にさかのぼります。すると、それはアンジーの人生を時系列にさかのぼったことと同じになり、タグが読み取るための手がかりが得られます。そして、今度はそれを使ってアンジーの過去へとジャンプするのです」
 そう言うと、空崖は足下に置いてあった人工皮革の黒いケースを開けた。そこには3Dテレビ用の眼鏡が5個入っていた。その一つを自分がかけ、残り4つを取ると左から順に黒棹、織長、アンジー、私にと渡していった。
 眼鏡をかけると視野が狭くなった。60インチの画面があまり大きく感じられない。ふとテレビの後ろに目をやると、全面ガラスとなった戸には、すでに遮光カーテンがひかれていることに気がついた。
 空崖は、液晶テレビを設置しているラック内のゲーム機のような機器をいじっていた。しばらくしてその機器に接続されたコントローラを手に取ると、黒棹に合図を送った。黒棹が立ち上がり、壁の電燈のスイッチを押した。部屋の明かりが消え、暗闇につつまれた。
 暗がりのなかに空崖の声が響いた。
「いままで話したことは全部忘れてもらって結構です」
 えっと思わず声をあげそうになった。空崖はいったい何をしようとしているのか。彼の本当の狙いは何なのだろう。
「いままでの話はこれから行おうとすることに、みなさんの理性が介入してこないようにするための煙幕のようなものです」
 そう言うと空崖は、コントローラーのボタンを押した。
 すると、画面にこの邸の日本庭園の画像が映し出された。画像は見事に3D化されていた。よくある3Dテレビのように、ペラペラの写真を縦に並べたような貧粗なものではなく、手を伸ばせばさわれそうな完璧な立体となっていた。
 空崖はコントローラーのスティックを操作し、画面をゆっくり回転させながら織長に尋ねた。
「今年の5月ごろでしたか? 織長さん」
 いま画面には庭園の真ん中にある池が映し出しだされていた。
「そうじゃった。その先の石にアンジーがしゃがみ込み、両手で池の水をすくいっては、指の間から零れるのを眺めていたんじゃ……」
 私はふとアンジーの様子が気にかかり、視線を彼女に向けた。眼鏡で表情は読み取れないが、彼女も画像に見入っていた。
「次はもう少し前。4月です」
 画像はアンジーの部屋に変わった。私の番だった。
「私が初めてアンジーと出会ったとき、彼女はそのソファーに横になっていました。とてもきれいな紺色のガウンを着ていました」
 私は、一瞬、その日の出来事が目の前に蘇ってくるような錯覚に襲われた。しかし、すぐに現実に引き戻され、応接間のソファーに座っている自分を感じた。これが空崖のいうタイムマシンなのか、それなら全然ダメじゃない! こんなじゃあ……。ふいに意識が遠のくような錯覚を覚えた。いけない。ここで眠ってはダメだ。アンジーのために最後まで付き合わなくては。画面を見なきゃ。でも、どうしてこんなに眠いんだろう。
 画面は見たこともない洋式の豪邸のインテリアが映し出されていた。
「3月でしたか?」と空崖。
「そうです。ここはロサンゼルスの邸宅です。私が初めてアンジーに会ったのがここでした」
 黒棹が答えていた。
「たしか有名な映画プロデューサーの家をビデオ撮影のために借りたということでした。白い大理石の廊下の先には庭があり、その庭には瓢箪のような形のプールがありました。短パン姿のスタッフが何人もせわしなく歩いていました。彼女はその脇の部屋に紺のガウンを着て座っていました。そうです。そこです。サンドイッチか何かをほおばっていました。彼女の後ろにはメイク係がいて、彼女の髪にせっせと櫛をかけていました」
 自分が意図しないのに、脳が勝手に画像を描こうとする。ビデオの撮影現場など私は見たことがないのに……。ああ、それにしても眠い。あとどれくらい続くのだろう。とても眠らずにいられそうもない。
「いよいよ、これからです。2年前までさかのぼりましょう」
 そういう空崖の声は、すごく遠くで聞こえ、聴きとるのにも苦労するほどだった。
「おや?……」
 あたり一帯が赤黒く見える。見渡すと黒い木々の影が見えてきて、ここが山の中だとわかった。地面にはクロームメッキのように周囲の景色が映りこんだ棺のようなカプセルがあった。その上部が一方の端を支点として音もなくゆっくりと開き、中にはスモークガラスのバイザーのついた白いヘルメットを被り、真っ白のボディースーツに身を包んだ女性が眠っていた。しばらくじっとしていた女性は、やがてゆっくりとカプセルのなかで立ち上がった。女性がアバラ骨あたりの両脇にある突起を押すと、ボディスーツはまるで液体のようにスルスルと滑り落ち、たちまち全裸となった。ヘルメットを抜き取ると、あらわれたのはアンジーだった。
「これはどういうこと?」
 私にはまったく意味がわからず、解釈のしようもなかった。
 アンジーが何かの手話のように右手を素早く動かすと、棺の中のランプが点滅を始めた。点滅の間隔は徐々に短くなっていく。アンジーは全裸のまま走って山を下り出す。木々にぶつかり、枝に傷つけられながらもアンジーは必死に走る。すると、背後で大きな爆発が起こる。爆風に煽られたアンジーは吹き飛ばされて転がり、何かの物体に激突した。
 それは消防士だった。
 「カリフォルニア……。2年前……。山……。消防士……。そうか! 2009年のカリフォルニアの山火事だわ! あのとき彼女はあそこにいたのね。これでポルノ女優のキャリアとも符合するというの? だったらあの棺のようなカプセルは何なの? 彼女はいったいどこから来たというの?」
 そんなことより私は確かめなければならないことがあった。
 今すぐ確かめなければならない、重大なことが……。
 そう、それは……。
 何だったのか……。
 思い出せない……。

第3章 深層へのジャンプ

「……起きて」
「ねぇ、起きてったら」
 誰かに強く体を揺すられている。それに応えようとするのだが、体がだるくて力が入らない。しばらく、もがいていると、ふいに体が軽くなった。そのタイミングを逃さず、すぐに上体を起こし、一気に目を開けた。
 目に飛び込んできた光景に驚き、声をあげそうになった。見たこともない若い男性が心配そうな表情をしてこちらを見つめていたのだ。全身を、ゆったりとしたデザインの白い衣服に身を包んでいる。
作品名:沈黙のエンジェル 作家名:廻 石輔