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沈黙のエンジェル

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 織長の政治信条は「すべての物事はごく少数の優れた人間により、計画・管理・運営されなければ秩序を失ってしまう」ということだった。建築家として統一された景観を追求してきた織長が、強権政治への憧れに傾くのは自然の流れだったのかもしれない。
 そんな織長も、70歳を超え老境に差し掛かると、政治活動への興味を急速に失い、目立った活動をすることもなくなっていた。
 織長に家族はいなかった。妻とは10年前に死別し、子どももいなかった。富をもたらす魔法のような彼の力は、もともと誰かに引き継げるようなものではなかったし、大日本独立愛国同盟にしても創設者がいなくなれば瓦解するのは目に見えていた。彼が築いてきたものはすべて彼一代かぎりのものだった。年齢による衰えとともに彼の帝国に滅びの影が忍び寄り、その濃度を徐々に増していこうとしていた。
 そんな織長が自身の年齢を顧みず、なぜ若い外国人の娘に心を奪われることとなったのか。そもそもそんな老境の男がどこでアンジーと知り合ったのか――。
 織長とアンジーとの馴れ初めを、私がいくら尋ねても、黒棹は口を濁してなかなか言おうとはしなかった。黒棹は織長の名誉にかかわることだと考えていたのだ。
 それというのもアンジーは、アイス・エンジエルという芸名で活躍していたアメリカのポルノ女優だったからだった。私はその事実を知って初めて、アンジーというのがエンジェルの短縮形だということに気づいた。
 若い衆たちが暇つぶしにポルノビデオを観ていたとき、たまたま織長が通りがかったのがきっかけだったという。アンジーの姿を目にした織長は何かにとりつかれたようになり、金に糸目をつけないので何としても彼女を連れてくるよう、黒棹らに命じた。黒棹は配下の者たちとともに渡米すると、エージェントを立て、モデル事務所に何度も足を運び、交渉した。その結果、破格の移籍金を支払うことで、ようやくアンジーを日本に連れてくることがきたのだという。
 アンジーがポルノ女優であったという事実は、その高貴な印象からは少し意外な気もしたが、納得する面もないではなかった。アンジーは若い男性に出会うたび、ことごとく強い興味を示していたからだ。植木の手入れに訪れた若い職人の動きに目を奪われたり、たまに洋服を買いに出かけたときにも、通りすがりの若い男性をまともに見つめ続け、冷や冷やすることがあった。日本とは違い、性に開放的な文化の違いだと理解しようとしてみたが、ひょっとすると彼女には、もともと淫乱の気があるのかもしれないと思ったものだった。
 織長のわがままを叶えるために、なぜ黒棹がこうも奔走するのかが不思議でならなかったが、そのことを尋ねると、黒棹は言った。
 「命令は絶対だが、怖いからじゃねぇ。俺たちにとっては親以上の存在なんだ。何とかかなえてやりてぇと思うのが人情さ」
 それにしてもなぜ、織長はアンジーにあれほど執着したのか。それは黒棹も分からなかった。
 織長の死後、黒棹が「恐らく……」と話したのは次のようなものだった。
 織長は脂の乗り切った壮年期に何度もヨーロッパを訪ね、そこで大きなプロジェクトに関わったが、その際、ドイツやオランダで何度も少女の娼婦を買っていた。当時は今ほど厳しく取り締まられておらず、発覚してもスキャンダルにもならない時代だった。穢れのない無垢な姿態がもたらす甘美な陶酔感に溺れながらも、道徳的な罪悪感に身を焼かれるという少女との体験は、さすがの織長にとっても名状しがたいものだったことだろう。その強烈な体験が織長の脳裏に、消え去ることのない記憶として焼きつけられた可能性は大いにあった。それから時代は少女売春への規制強化へと進み、絶大な力を持つ織長といえども二度と同じ体験を味わうことはできなくなっていった。思いだけがくすぶり続けていた織長に、アンジーの容姿は、過去に出会った少女の面影を蘇らせたのではないかというのが、黒棹の推論だった。

 アイス・エンジェルという芸名はよく彼女を現していた。とにかくアンジーはめったに笑うことはなかった。苦悩を内に抱え込んでいるような容姿が魅力ではあったが、長く一緒にいるとさすがに気になってくる。アンジーが滞在するようになってからすでに約1ヵ月が経っていた。深い悩みがあるのなら、それを解決してやりたいと織長が考えたのは当然のことだった。しかし、それを依頼された黒棹にとって、それは大変な難題だった。
 黒棹は、アメリカの元の所属事務所に連絡を取り、彼女の経歴について詳しい説明を求めた。彼女はウクライナ出身ということになっていたが、何度説明を求めてもプロフィールに書かれている以上の事実がまったく出てこなかった。やがて「どこからも絶対に突っ込まれないよう完璧な履歴を自分が作った」という人物が名乗り出てくる始末だった。
 そこで黒棹は、元曙新聞編集委員でロシア支局長も務めた経験もある伝間剛毅(でんま・ごうき)=64歳=に調査を依頼した。伝間は織長とも旧知の間柄だった。
 伝間はかなり高額な調査費用を受け取るとすぐヨーロッパへ飛び、2か月後、報告書をよこした。それによると「彼女はハンガリーの農村地帯の出身で、3姉妹の末っ子で、本名をヤナ・ポドコバという。子ども時代にモデルとしてスカウトされたが、少女売春をさせられ、その事実が発覚しないよう言語野を鍼で壊された」ということだった。報告書には10歳当時の彼女の写真や彼女を知っているという人物の実名による証言も記載されていた。黒棹たちもこれでようやく真実にたどりつけたと思った。
 このころから、アンジーは少しずつ体調を崩すようになり、何度か病院にかかるようになっていた。その際、黒棹は念のためにとアンジーのDNAを調べてもらうことにした。すると、DNAのハロタイプから、いずれかの片親に由来する遺伝子の組合せを調べてみた結果、ハンガリーどころか東ヨーロッパ出身でさえない可能性が高いことが分かった。さらに頭部CT検査やMRI検査などからもアンジーの脳に人為的な損傷の痕跡は見当たらなかった。
 つまり、まことしやかに思えた伝間の報告書はまったくの作文だったのである。アンカーライターとしてならした伝間は、下っ端の記者が書いた記事を切り貼りしてはコラムにしたり、解説記事にしたりしてきた。自分の考えたストーリーに事実の断片を当てはめる習性があったのだが、そのことに何の罪悪感も感じてはいなかったようだ。
 このような報告書を捏造した伝間に対して、黒棹がどのように対処したか、私は知らない。この後、誰も伝間の姿を見たり、名前を聞いたりすることはなくなったことだけは確かだった。

 調査は完全に行き詰まった。織長の衰えは日に日に目立つようになり、それに呼応するかのように、アンジーも床に伏せることが多くなった。私は彼女の食事を介助したり、体を拭いたりして世話を続けていた。
 織長の衰えは年齢からくるものだったが、アンジーの場合は原因不明だった。医師は入院を勧めたが、織長はそれを嫌がった。彼女をずっと自分の手元に置いておきたがったのである。やむを得ず週に何度か医師の往診を頼むこととなった。
作品名:沈黙のエンジェル 作家名:廻 石輔