灰色蝶にウロボロス
今と記憶
平和と言えば平和な毎日だ。
あの魔術だという奇妙な影と遭遇して以来、私は時々そういった非現実的な奇怪なモノに遭遇するようになった。
自宅の庭で小さな人間、まさしく小人を見かけたり。(庭に穴を掘っていたと思ったら、丁寧にお辞儀をして去っていった)
限野と電車で別れて帰宅途中、カラスに話しかけられたり。(私と目が合うなり「本当にいたのか」とか言って飛び去った)
外出しようと思ったら大雨だったのでやめたのに、窓の外は青空が広がっていたので止んだのかと思ってもう一回外に出たらやはり大雨で、でも窓の外はどう見ても晴れていて。家族はふつうに傘も持たずに出かけて行ったのでどうやら私が外に出る時だけ降るらしい雨という非常に不快な現象に遭遇したり。
だけど私が一人の時に遭遇したこれらはまだいい方だ。限野のくれたお守りとやらが訊いているのかあれから二週間、実害というほどのものは一度も受けていないから。
ところが限野と二人でいる時に遭遇したモノというのは、思い出しただけでもうんざりしてしまう。
相変わらず私達は一緒に下校しているのだけど学校から駅までの道のり、あるいは電車の中では容赦のない奇怪に襲われている。
他にも多数の生徒が歩いていたはずの駅までの道で、突然霧らしいものが辺りに出てきたと思ったら他に歩いていた人たちの姿が消え、行けども行けども誰もいない、そしてどこにも辿りつけないという怪奇現象に遭遇もした。限野が何だか呪文のようなものを唱えたら霧は晴れ、人通りもあるいつもの道に戻っていたけれど。
またある時は人気のない時間帯が悪かったのか、私と限野の周囲に突然炎が生まれ、私達は円環状に燃え盛る炎の中に閉じ込められた。これも限野が例のごとく聖水的なペットボトルのお茶というありがたみの感じられないアイテムによって鎮火してくれたが、焦げ跡なども一切残らなかったので実は夢だったのではと疑ったものだ。
電車の中では天井から何の前触れもなくナイフが一振り落ちてきて、私と限野の間の床に突き刺さり、そして煙のように消えたり。他の人には見えていないようだったから不思議だった。
他にもまるでライオンのような大きさの猫に襲われかけたり、角が生えた絵に描いたような小鬼に石を投げつけられたり等々。
何で限野といる時はこんなに危険度が増すのかと訊いてみたら、お守りがなかったらこの程度の奇怪な危険には当たり前のように遭遇していただろうと言われた。
そして思い出した。この前、限野は言った。
『俺らは前回もあっちこっちで恨みも買ってたからなぁ』
俺ら、と複数形だ。話の流れから考えればその俺らに含まれるのは間違いなく私だ。
まさかと思って訊いてみたら、あの日撒いた餌とやらは私だけでなく限野も現代日本で生まれ変わって学生していますとお知らせしたらしく、同時に私だけでなく限野も前世で恨みを買った人々から恨みつらみの籠った嫌がらせを受けているらしい。限野本人はお守りを持ったりしないのかと訊いてみたところ、この程度なら勘を取り戻すのに丁度いいから放置する、とのことだった。強いと言うか図太いと言うか。今まであれだけ奇妙な目に遭ってきたのに私は未だに限野の狼狽する姿など見たことがない。いつだって余裕の笑みを浮かべているような奴だ。その上、実際にかなり危険な襲撃は限野の手によって撃退されているから、勘を取り戻すと言うのもあながち冗談ではないのかもしれない。
そうやって限野は勘を取り戻しているのかもしれないけれど、私は相変わらずほとんど思い出していないという状態から変化はなかった。
思い出した光景などは少し増えたし、限野との間に感じる引力めいたものはより強く感じられるようになった。そして自分でも驚くほど、遭遇する奇怪に対して冷静だった。
あんな通常じゃ考えられないような現象を前にしても、私は当たり前にその存在を受け入れている。耐性がついただけなのか、前世の影響なのかは知らないけれど。
ああいった奇怪なモノは見える者にしか見えないらしい。私の家族も学校の友達も、道往く人々も、私達の目の前で確かに存在しているはずの奇怪なモノに気付いた風もなく通り過ぎて行く。小人そのものは見えなかったようだけれど、小人の掘った穴は家族にもしっかり見えていたらしくもぐらでもいるんだろうかと首を傾げていたが。
最初は人といる時にああいう奇怪と遭遇したらどうしようと肝を冷やしたものだけどその心配もなくなり、ますますもって私は奇怪に対して耐性がついていった。それがいいことなのか悪いことなのかはわからないが。
そうやって奇怪に遭遇する日々にも慣れていって、私は改めて自分の置かれた状況について考えてみる余裕が生まれてきた。
私が思い出した見知らぬ記憶は遠い時代の異国と人々。その街並みや人の姿からそれは恐らくヨーロッパ。限野は私達の前世は二、三百年くらい前と言っていたから、時代は十七世紀から十九世紀くらい。
ヴァイオリン。
鮮やかなカンバス。
無数のダイヤモンド。
上流階級だろうきらびやかな衣装を纏う人々。
絢爛豪華な城内。
研究室。
塗りかけのカンバス。
水に映る城。
尊崇。
畏敬。
奇異。
好奇。
畏怖。
嫌悪。
様々な目で『私』は人々に見られている。
だからと言ってそれを憂いたり疎んだりはしていない。
ただただ笑っている。
人間という生き物を観察するように眺めて笑っている。
時に嘲り、時に憐れみ、時に羨み、周囲の人々を見て笑っている。
たくさんの言葉。
貧しい人々。
富んだ人々。
偽る幻。
柄に文字の彫られた剣。
鬼。
子供たちの声。
髑髏。
校舎。
深く険しい山。
海。
数字の羅列。
ぎっしりと埋まったアルファベット。
百点を取ったテスト。
――ああ、時間が記憶が入り乱れている。
これは違う。
違う、今思い出したいのは。
探す記憶は。
それは――……。
記憶という記憶が頭の中で無残なまでに散乱しているようだ。
船酔いでもしたような最悪の気分で私はベッドに横になった。
思い出せる光景は本当に増えた。
見知らぬ人々、見知らぬ時代、見知らぬ街並み、よくもこうもたくさんの記憶を今の今まで忘れたままでいたものだと呆れるくらいにたくさんの記憶が鮮明なまでに思い出される。
けれど、どういうわけか私は前世における自分の名前を思い出さない。名前という、もっともわかりやすい記号がわからないというのはどうにも気分が悪い。
それに光景が目に浮かんでも、その光景がどういったものなのか分からない。
自分とその光景との関連も、自分の名前も、自分の姿も。自分に関するほとんどが今の私には思い出せずにいる。
そして思い出せないと言えば限野についても。
私に甦った光景の中には、間違いなく浅くない縁があったはずの限野の姿がない。
もちろん彼だって前世では全く違う姿かたちなのだろうけれど、それらしい人物はどの光景にもいない。見ればきっとすぐに分かるだろうと思っていたのに。